近現代史記事紹介-3

 

■ 日本の戦後は終わっていない

 

 

産経新聞に気になるコラム、「日本の戦後は終わっていない」渡辺利夫氏が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

いつになったら戦後が終わるのか?日本のメディアの責任は大きいですね。

2022/06/23

 

 

日本の戦後は終わっていない 拓殖大学顧問・渡辺利夫

2022/6/22 08:00渡辺 利夫 コラム 正論

 

 

経済学者、渡辺利夫氏 
経済学者、渡辺利夫氏 

 

渡辺 利夫は、日本の経済学者。東京工業大学名誉教授、拓殖大学顧問、公益財団法人オイスカ会長。日本李登輝友の会会長。一般社団法人高齢者活躍支援協議会会長。専門は開発経済学と現在アジア経済論。山梨県甲府市生まれ。

 

 

日本の戦後は終わっていない

 

昭和20年9月27日、昭和天皇は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとの会見のため、東京・赤坂の米国大使館に赴かれた。会見に先立って天皇が右、司令官が左に並び立つ写真が撮影された。

 

陛下はモーニングの正装で直立、陛下より頭ひとつ背高の司令官は軍装の開襟シャツ、腰に両の手を当てた悠然たる感じである。日本人の多くがこの写真を侮蔑的なものだと感じるのではないか、少なくとも国民にそのように受け取られることを恐れた内務省は、写真が掲載された新聞を差し押さえ頒布を禁じた。

 

第1回会見の際に撮影された昭和の天皇陛下(右)とダグラス・マッカーサー(昭和20年9月27日) 
第1回会見の際に撮影された昭和の天皇陛下(右)とダグラス・マッカーサー(昭和20年9月27日) 

 

 

GHQの検閲下で新聞は

 

これに反発したGHQ(連合国軍総司令部)は、日本政府が新聞の記事を差し止めたり、発売を禁止したり、編集方針に干渉したりしてはならない、という趣旨の指令を出した。一旦は差し止められた新聞は半日遅れで配布されることになった。

 

この事実を捉え江藤淳氏が『閉(とざ)された言語空間』において展開した言説には、いかにも氏らしい鋭い眼光が放たれていた。このGHQ指令により日本の新聞はいかなる意見表明を行っても日本政府からの処罰を受けることはないという「特権的地位」を手にし、「その代(かわ)りに、新聞は連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれ、その<政策ないしは意見>、要するに彼の代表する<価値の代弁者>に変質させられた」と氏はいうのである。

 

GHQによる新聞検閲の指針は30項目に及ぶ広範なものであった。GHQに対する批判、極東軍事裁判に関する批判、GHQが日本国憲法を起草していること、ならびにGHQが新聞などあらゆるメディアを検閲下に置いていることへの言及が厳禁された。

 

日本国憲法の制定が急がれていた。日本の自衛権否定という露骨な主権制限条項を含む「マッカーサー・ノート」と呼ばれる文書を原案とし、GHQ民政局が調整を加え日本側に提示したものが総司令部憲法草案であった。抗(あらが)う日本政府首脳陣を制し、なおこの憲法をGHQの関与しない日本政府独自の改正憲法として公布・施行するという具合にことは進んだ。

 

 

誤れる方向へ導いた責任

 

真実に迫りたいという志をもつ言論人であれば、これほど強引な所業に無知であったとは思われない。おそらくはこれが検閲指針における最高の禁忌であるがゆえに、知ってはいたが報道しなかったということなのであろう。日本の新聞はGHQとの「共犯者」になり、江藤氏をして言わしめれば世界に類例のない国籍不明の媒体へと変じてしまったのである。

 

しかし、である。日本は昭和26年9月8日にサンフランシスコ講和条約に調印、翌年4月28日に条約が発効してGHQの進駐は終焉(しゅうえん)、検閲も廃止されることになった。当然ながら占領下の7年間、厳しい検閲の堰(せき)にさえぎられて溜(た)まりに溜まっていた鬱積が水流となって轟々(ごうごう)と溢(あふ)れ出るかと思いきや、そんなことはまるでなかった。

 

戦前・戦中期の報道についていえば、日本を誤れる方向へと導いた責任の一端は新聞にもあったと小声で言い、しかし過半の責任は内務省や軍当局の強権的な検閲にあったと大声で言い募ったのである。その一方、GHQによる検閲は、戦前・戦中期のそれとは比べものにならないほどに陰湿で執拗(しつよう)であったが、新聞はこれを難じることはなかった。

 

 

GHQ憲法抱きしめたまま

 

反対に、日本のメディアは、GHQ解体後もなおGHQ製の憲法を平和憲法だといい、占領期間中の東京裁判の過程で流布された「自虐史観」を発信する側にまわってしまった。日本の五大新聞による膨大な数の社説の中でGHQによる検閲に異議を呈したものは『読売新聞』(平成9年3月30日付)「言論管理下の戦後民主主義」のみであったとかつて江藤淳氏は述べていた。読売の真摯(しんし)を讃(たた)えるというよりも、みずからの使命に誠実に向き合おうとしない日本のメディアのどうしようもないまでの不作為を難じての嘆きの指摘であった。

 

ウクライナへのロシアの侵攻は「力の空白」こそが専制国家の侵略を招き寄せるという冷厳な事実を証した。2度の大戦における敗北のトラウマを引きずってきたドイツさえ、これを機に国防政策を大きく転換し「戦後」を脱却しようとしている。フィンランドもスウェーデンもNATO(北大西洋条約機構)は非同盟国を助けにきてはくれないことを知らされ、同盟条約に参加することに決した。

 

この期におよんで日本という国は、GHQ憲法を抱きしめて巨石のように動かない。今年4月28日はサンフランシスコ講和条約発効70周年であった。ロシアのウクライナ侵攻の真っただ中で日本は独立の日を迎えたのだが、大手新聞社の中でこのことを社説として論じたのは同日の『産経新聞』の「主権回復70年 占領の呪縛を解くときだ―ウクライナの悲劇から学べ」だけであった。主権回復から70年を経てもなお戦後からの脱却ができていないのがわが日本なのである。(わたなべ としお)

 

 

 

 

■ 日本文明の消滅を避けるために

 

 

産経新聞正論に、文芸批評家・新保祐司の気になるコラムが載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

日本文明は大事にしないとね。ぜひ、神奈川近代文学館で開催されている「生誕100年 ドナルド・キーン展」も観に行きたいと思っています。

2022/06/20

 

 

日本文明の消滅を避けるために 文芸批評家・新保祐司

2022/6/20 08:00 コラム

 

文芸評論家の新保祐司氏 
文芸評論家の新保祐司氏 

 

新保 祐司(しんぽ ゆうじ、1953年5月12日 - )は、日本の文芸評論家。元都留文科大学副学長・教授。

 

 

神奈川近代文学館で開催されている「生誕100年 ドナルド・キーン展」は、3年前に96歳で死去した碩学(せきがく)の全貌を知ることができる好企画である。

 

 

ドナルド・キーン展を見て

 

これは、日本人が日本について改めて考察する機会にもなるだろう。キーンが、我々日本人に示して見せた日本の姿は、「西洋人にとっての発見だったばかりでなく、日本人自身にとっても、はじめて自分の顔を直視した驚き」(安部公房)をもたらすものであったからである。

 

90歳のときに日本国籍を取得し、名前の漢字表記を「鬼怒鳴門」としたこのアメリカ人の日本学者が、戦後日本の時空間の中に存在したということには、日本文化史上、貴重な意義がある。キーンは日本人自身の中に日本文化に対する関心や知識が薄くなっていく大勢の中で、西洋人として客観的な視点を持ちつつ深い愛情を抱いて日本文化の魅力を日本人に教えてくれた恩人である。

 

私は、キーンの著作『足利義政 日本美の発見』の書評をしたことがある。この本は、平成15年に刊行されたものだが、「日本の心」の出発点は東山時代にあるとして、その守護神であった足利義政の生涯をたどったものである。「マンションに住んでいる現在の日本人も、床一面に畳を敷いた部屋に入り、床の間には水墨画と生け花、四角い柱に明りを入れる障子、違い棚などがあるのを見れば、心が落ち着くに違いない。これらは全部、東山時代に始まりがあり、東山時代のものが最高だろう」と書いているが、著者の視点は、現在の日本人の生活とのつながりに置かれている。

 

キーンの仕事の集大成には『日本文学の歴史』全18巻があるが、私としては著者自身も「これが私の代表作」と語っている『明治天皇』が渾身(こんしん)の作だと思う。何故(なぜ)ならば、現在の日本人の生活と日本という国家に「つなが」る日本の近代の意味は、明治天皇という存在に象徴されているからである。

 

 

国柄を薄めてきた日本

 

今回の展示の中で、感銘を受けた一つは、平成28年に刊行された『石川啄木』のカバーに使われている啄木の写真であった。私は、この写真にはじめて出会った。明治時代のロマン派の詩人とか青春の歌人というイメージを吹き飛ばして、時代に深く相渉(あいわた)った人間の不敵な面構えをしている。

 

「啄木は『最初の現代日本人』と呼ばれるにふさわしい」というキーンの鋭利な批評が、この写真の選択にあらわれている。私には、はじめて「現代日本人」啄木の「顔を直視した驚き」があった。それにしても、日本文化の豊かさと深さをキーンという稀代(きだい)のアメリカ人によって示されるとは、一体何としたことか。自分を振り返っても、日本文化についてこれほど広く関心を抱いて来なかったと反省させられる。

 

戦後の長きにわたって日本は日本の国柄を薄めていき、日本人としてのアイデンティティーは混迷していった。特に、グローバリズムの謳歌(おうか)の中で、その動きは加速したのであった。そのような時代の流れの中、新型コロナウイルス禍によって、その方向への反省が生まれ、更に2月24日にロシアによるウクライナ侵攻という戦後日本の「泰平の眠りをさます」事態が起きた。この2つの出来事は、日本と日本人をグローバリズムの見直しに導き、アイデンティティーの確認への思想運動が始まるに違いない。

 

「我が国の領土、領海、領空、そして、国民の生命と財産を守る」というフレーズはよく表明されるが、この決意は、ウクライナ危機が及ぼす安全保障環境の激変によって一層切実なものとなった。しかしながら、果たしてそれだけでいいのであろうか。日本文明を保持するということが、根本になければならないのではないか。

 

 

日本人自身が愛情を

 

ハンチントンは、『文明の衝突』の中で、現在の世界の主たる文明を8つとした。即(すなわ)ち、西欧、中国、日本、イスラム、ヒンドゥー、スラブ、ラテンアメリカ、アフリカである。重要なのは、日本が1国で1文明とされたことである。その日本文明の中核をなす日本文化が、キーンのようなアメリカ人を魅了したのも十分、頷(うなず)けるのである。

 

先の敗戦によって日本は占領下に置かれたが、憲法の制定や仮名遣いの変更などの問題があるとしても、国体は失われず、日本語は残った。円も変わらなかった。ひとまず日本文明は保持されたのである。「民主主義」の国家による占領だったからである。しかし、将来、もし「権威主義」の国家に敗戦した場合の占領では、日本文明そのものが、消滅させられるだろう。だから、2度目の敗戦は、絶対に回避しなければならない。

 

そしてその決意の基盤として日本人には日本文明の保持に対する情熱が求められる。そのためにはまず、キーンという稀代のアメリカ人が抱いた日本文化への広くて深い関心に負けない愛情を日本人自身が回復しなければならない。(しんぽ ゆうじ)

 

 

関連記事

 

特別展「生誕100年 ドナルド・キーン展―日本文化へのひとすじの道」

神奈川近代文学館第2・3展示室 2022年5月28日(土)~7月24日(日)

 

ドナルド・キーン 写真=森清/講談社/アフロ 
ドナルド・キーン 写真=森清/講談社/アフロ 

 

太平洋戦争目前の1940年(昭和15)に偶然手にしたアーサー・ウエーリ訳「源氏物語」との運命的な出会いに導かれて、ジャパノロジストの道へと進み、日本文化の魅力を世界へ、そして日本の人々へ伝えたドナルド・キーン(1922~2019)。アメリカと日本を往来しながら、古代から現代までの文学、歴史、芸能と幅広いジャンルの研究や翻訳に取り組み、後に続く日本文化研究者の教育にも力を注ぎます。書斎の人に留まらず、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房、司馬遼太郎ら、著名な文学者とも親交を結び、折に触れて書き残した彼らのプロフィールは、近代文学史の貴重な証言となっています。

 松尾芭蕉の「つひに無能無芸にして只此一筋に繋る」(「笈(おい)の小文(こぶみ)」)に日本研究を選択した心境を重ねてから70年余、キーンがひたすらに歩んだジャパノロジストとしての足跡と、オペラや旅、日本の人々と日本文化を愛した情熱的な生涯を紹介します。

 

 

 

■ 平和憲法」の呪縛が解ける時

 

 

産経新聞正論のコラムに、平川祐弘氏の「平和憲法」の呪縛が解ける時が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

平和憲法の問題点はいつ改訂されるのだろうか?

2022/06/18

 

 

「平和憲法」の呪縛が解ける時 東京大学名誉教授・平川祐弘

2022/6/17 08:00平川 祐弘 コラム 正論

 

露軍の空襲で崩壊した建物=16日、ウクライナ東部ルガンスク州(AP) 
露軍の空襲で崩壊した建物=16日、ウクライナ東部ルガンスク州(AP) 

 

東京大学名誉教授、平川祐弘氏 
東京大学名誉教授、平川祐弘氏 

 

平川 祐弘(旧字体: 平川 祐弘、ひらかわ すけひろ、1931年〈昭和6年〉7月11日 - )は、日本の比較文学研究者、評論家。東京大学名誉教授、国家基本問題研究所理事。

 

 

一九四五年、敗戦国日本は武装を解かれ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」(前文)、戦力は「保持しない」(九条)という憲法が翌年公布された。以後、二大主張が対立し、今日に及んでいる。多数派は、占領軍の日本非武装化に賛成し、『朝日新聞』『公明新聞』『赤旗』など憲法護持である。

 

 

日本人の精神的武装解除

 

「平和憲法」の夢は美しい。この幻想にすがるのは、日本人の精神的武装解除を意図した占領政策に端を発するが、主権回復後もその呪縛がさらに続いたのは、その理想に憧れたからだ。平和は憲法のおかげのような報道もあった。

 

だが、そんな日本の安全神話は、国際情勢の険悪化により、シャボン玉のごとく破れた。自分も血を流そうとせぬ日本を、米国は本当に守るのか。そんな疑念がかすめたからである。

 

日本人は戦前は「絶対不敗」を確信し、戦後は「絶対平和」を盲目的に信仰したが、両者は同一コインの裏表なのだ。「平和憲法」の美名は、憲法批判を禁ずるタブーとなって私たちを呪縛した。国際関係の実相を見る目が曇り、思考停止が続いた。

 

だが、独裁者が核で恫喝(どうかつ)するに及んで、平和の幻想は破れた。ウクライナ侵攻で北欧人も日本人も、考えが変わる。近隣諸国の不義不正を警戒せねばならない。安保法制を容認、憲法改正を主張する『産経新聞』は、以前は新聞界での少数派だったが、そのオピニオンが今や主流になりつつある。ここで新聞にまつわる思い出をたどり、私が戦後体制の呪縛から脱皮した様をスケッチしたい。

 

小学五年の頃から新聞を読んだ。陸海軍の戦果が知りたかったからで、今の子供が野球やサッカーの打数や打率や点数に一喜一憂するのと変わりない。獅子文六が本名の岩田豊雄で『朝日』に連載した真珠湾雷撃の勇士を扱った『海軍』など毎朝、待ち遠しかった。『読売報知』などが、「鬼畜●■(べいえい)」と獣偏をつけて印刷したときは、品のなさにいやな気がした。(●は獣偏に米、■は獣偏に英)

 

占領下で学生生活を送ったが、昭和二十年代末から仏独英伊に留学し、世界を見、各地の新聞を読むことで、私の世界観も変化した。人民民主主義より西側民主主義の方がいい。一九五九年、社会党の浅沼稲次郎が北京へ出かけ「米帝国主義は日中共同の敵」と言ったときは驚いた。私が帰国すると、周囲は安保反対の大合唱だ。「安保反対に反対。民主主義を守れ。議会の多数決に従え」などと私は言ったが、変人扱いである。大学は年中ストライキだ。助教授の私も当直したが、そこでも「平川はいつも妙な発言をする」と数学の助教授が腹を立てた。『朝日新聞』しか読まない同僚とは話が合わないことを私は自覚した。

 

 

触らぬ毛沢東にたたりなし

 

当時東大で『朝日』の売れっ子は菊地昌典で、文化大革命礼賛。それに対し、東外大助手となった中嶋嶺雄は、文革を毛沢東の権力闘争と見て、その分析を遠慮せずに発表した。私もたまに寄稿したが、本紙「直言」欄に、毛主席はドイツの詩人シュトルムを読んでいると東独の大使が驚いているが、それは訳者、郭沫若が旧制岡山高校に留学中、ドイツ語で『インメンゼー』を習ったからだ、と書いた。政治的直言はまだ控えていた。それでも『朝日』はやめ『産経』を購読した。

 

毛沢東が一九七六年九月に死んだ直後、昔のパリ留学仲間が集まった。中国大使館を弔問し、記帳してきた、と応用化学の本多健一東大教授が恭(うやうや)しく言うから、「江青女史がそろそろ逮捕される頃じゃないか」と私が冷やかした。外交官の加藤吉彌が「おい、ここは中華料理店だぞ。口を慎め」と言う。比較文化の同僚の芳賀徹は「あの中国一辺倒はなんだい」と『朝日』をこきおろす。するとドナルド・キーンは「私は日本の文化事情を追う立場ですから、文化欄は『朝日』です」と応じた。翌年、私はワシントンのウィルソン・センターへ赴任、日中国交再開に際し、初代中国大使を務めた小川平四郎氏とご一緒したが、「『産経』だけはどうも」と言われた。

 

 

擬似平和主義の自家中毒

 

北京に特派員を置くことを拒否された『産経』が正しかったか、中国御用の記事を日本へ送り続ける特派員を北京に駐在させた『朝日』が賢かったか。『朝日』退社後、中国の日本向け広報誌『人民中国』の編集者に天下りした北京特派員もいたが、風上に置けない。

 

加藤周一は、日本はかつて中国に対して侵略戦争をした前科があるから中国批判は一切しない、という一見「良心的な」立場をとり、『朝日』で重用された。社側も「知的巨人」加藤の発言を尊重した。だが振り返ると『朝日』が信用を失ったのは、慰安婦問題の吉田清治の詐話事件だけではない。そんな擬似平和主義の自家中毒に世間がうんざりしたからだ。「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」というふざけた記事が同社の雑誌に出てから、はや半世紀が経った。(ひらかわ すけひろ)

 

 

 

■ 重信房子氏の出所に興奮・・メディアの奇妙さ

 

 

産経新聞のコラムに、飯山陽氏の「重信房子氏の出所に興奮…メディアの奇妙さ」が載っていましたので書き起こして掲載します。

 

国際テロの事実をなぜ美化する? メディアの危うさか。

2022/05/31

 

 

重信房子氏の出所に興奮…メディアの奇妙な高揚 飯山陽

2022/5/28 10:00  社会 事件・日本赤軍

 

イスラム思想研究者の飯山陽氏 
イスラム思想研究者の飯山陽氏 

 

飯山 陽は、日本のイスラム思想研究者、アラビア語通訳。専門はイスラム法学・イスラム教に関わる世界情勢の調査・分析など。2017年からタイ王国のバンコクに在住していたが、2021年7月に帰国した。

 

 

世界革命によって既存秩序を転覆し共産主義社会の実現をめざす国際テロ組織「日本赤軍」の最高指導者を務めた重信房子氏が28日、懲役20年の刑期満了を迎え、出所した。事前にこれを伝えるメディア報道には、奇妙な期待や興奮が滲み出ていた

 

共同通信は今月14日の記事で28日の刑期満了の予定を報じたが、重信氏について「常人離れした人心掌握術から『魔女』とも称された」と述べ、彼女の社会運動への復帰を望む支援者もいると伝えた。

 

毎日新聞は16日夕刊の「重信受刑者が歌集刊行 刑期満了に合わせ」という記事で、日本赤軍について「1970年代に中東など海外で『武装闘争』を繰り返した」と説明した。これは共同通信の配信記事を掲載したもののようだが、毎日や共同通信にとって日本赤軍の引き起こした数々の事件は、テロではなく「武装闘争」なのだ。

 

歌人の加藤英彦氏は3月7日、毎日新聞朝刊重信氏について「新しい秩序を創ろう」として「闘いに敗れた」人であり、「それでも熱く変革をねがう精神に私はある凛冽さすら感じる」と評価した。日本には今も、重信氏の出所に色めき立つ人々がいるのだ。

 

左派系の英字誌『THE FUNAMBULIST』41号は重信氏を「国際連帯の模範」と札賛も、「パレスレナ解放に尽力した功績」を称えた。重信氏の娘メイ氏は同誌に、重信氏をテロリスト呼ばわりするのは「国家主導のプロパガンダ」であり、彼女は「左翼の反植民地主義、反帝国主義の思想的背景を強く持つ熱烈な政治活動家」であり、「全ての人、特に虐げられている人たちに対する愛と献身」の人なのだと擁護する文を寄稿した。

 

しかし重要なのは事実だ。日本赤軍は1972年にイスラエルのロツド(現ベングリオン)空港で無差別テロ事件を起こし、約100人の死傷者を出した。「パレスチナ解放のための闘争」であるはずが、彼らが殺害した26人のうち17人は巡礼のためにイスラエルを訪れていたプエルトリコ人であった。

 

日本赤軍はその後もドバイ事件、シンガポール事件、ハーグ事件など次々と国際テロ事件を引き起こした。今も日本赤軍のメンバト7人が国際手配されており、警視庁は今年2月、「事件はまだ終わっていません」「彼らはあなたの近くで生活しているかもしれません」と情報を呼びかける動画を公開した。

 

革命や闘争という言葉には甘美な響きがある。かつて権力と闘い自由や解放を勝ち取るという勇壮な夢を抱いた人々や、日本赤軍の蛮行を知らず今の社会を変えようと正義感に燃えるナイーブな若者にとって、重信氏の出所は「行動」を惹起するものとなりかねない。革命という崇高な目的のためには犠牲もやむなしなどという独善的論理で無差別テロを正当化するイデオロギーを、この日本で再び蔓延らせるようなことはあってはならない(寄稿)

 

 

日本赤軍の最高指導者だった重信房子氏(中央)。マスコミが待ち受ける中、医療刑務所を出所すると、支援者らに出迎えられた。右は長女のメイ氏=28日午前、東京都昭島市(松井英幸撮影) 
日本赤軍の最高指導者だった重信房子氏(中央)。マスコミが待ち受ける中、医療刑務所を出所すると、支援者らに出迎えられた。右は長女のメイ氏=28日午前、東京都昭島市(松井英幸撮影) 

 

 

日本赤軍と重信房子元最高幹部を巡る主な動き

 

1969年(昭和44年)・・赤軍派が結成され、創立メンバTとして参加

 

1970年代初め・・日本赤軍を結成

 

1972年(昭和47年)・・イスラエル・テルアビブのロツド(現ベングリオン)空港銃乱射事件で約100人が死傷

 

1973年(昭和48年)・・日航ジヤンボ機を乗っ取り、アラブ首長国連邦のドバイ空港に着陸させる

 

1974年(昭和49年)・・シンガポール製油所襲撃事件オランダ・ハーグ事件で日本赤軍が仏大使館を占拠 

 

1975年(昭和50年)・・マレーシア・クアラルンプール事件で日本赤軍が米大使館などを占拠。日本の受刑者ら5人を超法規的措置で釈放させる

 

1977年(昭和52年)・・バングラデシュ・ダッカ事件で日本赤軍が日航機をハイジャック。超法規的措置で日本の受刑者ら6人を釈放させ、600万ドJレを奪う

 

2000年(平成12年)・・大阪府警が逮捕

 

2022年(令和4年)5月28日・・刑期満了で出所

 

 

 

 

■ 専守防衛は国是だと誰が決めた?

 

 

産経新聞のオピニオンThe考に、池田実氏の「専守防衛は国是だと誰が決めた?」が掲載されていて、気になったので書き起こして掲載します。

 

日本の外務省と、教育と、憲法学者には、本当に呆れてしまいますね。

国連の誤訳は、もう最低のレベルです。

2022/05/30

 

 

専守防衛は国是だと誰が決めた? 日大教授・池田実

2022/5/23 07:00 ウクライナ侵攻 憲法改正

 

日本大教授の池田実氏 
日本大教授の池田実氏 

 

いけだ。みのる 昭和36(1961)年生まれ。早稲田大政治経済学部卒業、同大大学院政治学研究科博士後期課程研究指導認定退学。専攻は憲法学。山梨大助教授などを経て平成20年から現職。

2015年の安保法案反対デモ=国会前(早坂洋祐撮影) 
2015年の安保法案反対デモ=国会前(早坂洋祐撮影) 

 

 

憲法にないコトバの呪縛

 

ロシアのウクライナ侵攻を機に、日本の国防論議が熱を帯びてきた。敵基地攻撃能力の保持や核共有を主張する保守・右派は、専守防衛や非核三原則の見直しの必要を説くが、反対する革新・左派は、専守防衛や非核三原則は「国是」であり堅持すべきだと言う。しかし、そもそも国是とは何なのか。憲法と国是はどのような関係にあるのか。

 

防衛白書によれば、専守防衛とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」とされる。50年以上前から言われてきたが、そもそも防衛白書は時の政府の国防戦略に過ぎない。非核三原則(=核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)は、これまた50年以上前の首相施政方針演説の一内容である。いずれも憲法どころか法律や政令・省令ですらない。にもかかわらず、いつのまにか国是と呼ばれ、憲法よりも高次の規範であるかのような扱いすら受けている。

 

憲法9条が定めるのは、「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」である。国家の政策の手段として他国の領土保全や政治的独立を武力で脅かす「侵略戦争」を日本は放棄すると宣言しているのであって、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使」する専守防衛を明示しているわけでも、相手の武力攻撃前の先制攻撃という特定の防衛戦略・戦術を直接禁止しているわけでもない。

 

専守防衛が国是だとすれば、日本は相手から武力攻撃を受けるまで防衛力を行使することはできないことになる。日本に人的・物的な被害が出るまで待った後、戦争が始まれば、ウクライナのように日本の本土が主戦場となり、その後の被害も甚大なものとなろう。わざわざ侵略国軍隊を招き入れるようなもので、自国よりも侵略国ファーストの倒錯した戦略とすらいえる。反自衛隊の世論感情が強かった半世紀前の日本社会では、政府がそれを言わざるを得ない特殊事情があったし、言うことに一定のメリツトもあったろう。しかし、周辺地域や国際社会の状況が大きく変わったこんにちもなお、憲法9条が直接命じてもいない専守防衛に固執し、アナクロで非現実的な安全保障政策を続けていれば、抑止力はどんどん低下し、戦争の誘因が増加することにもなりかねない。

 

 

「中立」を捨てた北欧2国

 

専守防衛や非核三原則以外にも、憲法9条の周辺には、怪しげなコトバ、ミスリーデイングな不確定概念があふれている。

 

たとえば「国際連合」。United Nationsのどこに「国際」と訳せる単語があるのか? 正しくは「連合国」、つまり第二次世界大戦の戦勝国を意味したコトバに過ぎない。この訳語のために、国連に過剰な期待を寄せている日本人は少なくないが、安保理で拒否権をもつロシアが侵略戦争を引き起こしたことで、国連はその機能不全を全世界に露呈することになった。

 

このような国連の機能不全を見越して、国連憲章51条は、個別的・集団的自衛権の行使がすべての加盟国の固有の権利であることを確認している。しかし、これについても英語の「the right of self-defence」に日本の外務省が「自衛権」という訳語を用いたことで、多くの日本人に歪んだ理解をもたらした。 

 

自衛というコトバには、「自分の身は自分でまもる」というニュアンスがある。そのためであろう。2014年に安倍晋三内閣が集目的自衛権に関する政府解釈の変更を閣議決定し、平和安全法制の整備に着手したとき、多くの憲法学者は、集団的自衛権の行使は自国ではなく他国をまもる「他衛」であり、専守防衛を旨とする憲法に違反すると抗議した。  

 

しかし、法律用語としての「self-defence」にはそれ自体に正当防衛の意味があり、国連憲章の公用語版を読み比べると、フランス語では「正当防衛の自然権」(le droit naturel del ‘e gitime d’e fense)、スペイツ語でも「正当防衛の固有の権利」(el derecho inmanente de leg ‘1 tima defensa)となっている。つまりこれは、平時には違法となる武力行使も、他国による武力攻撃(=侵略)を撃退するためであれば違法ではなくなる、という法理を表現している概念であって、「自分の国は自分でまもれ」などと説いているわけではない。実際、ほとんどの国は独力では正当防衛を全うできないので、「自分で」ではなく、「自分を」まもるため、地域的集団安全保障や軍事同盟の枠組みに自国を組み込んでいる。

 

武装中立を国是としてきたフィンランドとスウェーデンが北大西洋条約機構(NATO)加盟を申請したのも、共同防衛による抑止力確保の文脈で理解することができる。自国をまもる強固な意志をもつ国は、その目的に適わなくなった国是と心中する愚は犯さないのである。

 

 

反撃能力も「必要最小限」

 

自衛というコトバにはもう一つ、物事を過少に見せかける隠蔽効果がある。憲法9条がらみで自衛権行使が取り沙汰されるとき、必ずといっていいほど「必要最小限」という修飾語が免罪符のように付いて回るところに、それは表れている。必要最小限と聞くと、一瞬とても控えめな“軍事力“をイメージするが、よくよく考えてみれば、どの程度が必要最小限かは侵路国の軍事力によって決まるので、「防衛費はGDPの何%」などという機論は意味をなさない。超大国を侵路国と想定する場合、その国を少し上回る軍事力でも必要最小限であって、専守防衛の枠を逸脱しないことにもなり得る。このよう不確定概念に防衛費の歯止め効果を期待する心理は、まったくもって理解不一能である。

 

岸日文雄首相が今月23日の日米首脳会談で使った「反撃能力」の表現も注目すべきだ。自民党安全保障調査会が「戦略3文書」改定へ向けて取りまとめた提言(4月27日、岸田首相に提出)は、「敵基地攻撃能力」という表現をオブラートに包んで「反撃能力」に改称することを提唱。原則としての専守防衛は大きく変えないとしつつ、「必要最小限度の自衛力の具体的な限度は、その時々の国際情勢や科学技術等の諸条件を考慮し、決せられる」と付記している。「反撃能力」への改称には、敵が攻撃準備に着手した時点で叩く先制的自衛も可能という論理を隠すという意体で姑息の感もあるが、「必要最小限」は想定される侵略国の軍事力などによって変わるものだというコトバのカラクリをあっけらかんと示してみせたのは、一歩前進というところであろうか。先制的自衛をめぐっては、憲法よりも国際法の観点から決着のついていない問題が多いので、コトバ遊びを排し、即物的・現実的な議論を深める必要がある。

 

ロシアのウクライナ侵攻は、「平和を愛する諸国民の公正と信義」(憲法前文)など現実には存在しないことを明らかにした。そのような架空の概念安全保障の拠り所にしている憲法を、そのままにしておいてよいはずがない。しかし、それ以上に愚かで罪深いのは、憲法が直接命じているわけでもない、その時々の国防戦略の一つに過ぎない専守防衛などのコトバを国是として墨守し、これと心中することである。9条をめぐるコトバの呪縛を解かなければならない。

 

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■ 「国家神道」は戦時下の反日宣伝

 

 

産経新聞正論に、平川祐弘氏の気になるコラム「国家神道」は戦時下の反日宣伝が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

神道は外国人には理解できないですね。しっかり利用されたということか。

2022/05/29

 

 

「国家神道」は戦時下の反日宣伝 東京大学名誉教授・平川祐弘

2022/5/27 08:00 コラム 正論

 

東京大学名誉教授・平川祐弘氏
東京大学名誉教授・平川祐弘氏

 

平川 祐弘(旧字体: 平川 祐弘、ひらかわ すけひろ、1931年〈昭和6年〉7月11日 - )は、日本の比較文学研究者、評論家。東京大学名誉教授、国家基本問題研究所理事。

 

伊勢神宮内宮の宇治橋前=平成29年5月、三重県伊勢市 
伊勢神宮内宮の宇治橋前=平成29年5月、三重県伊勢市 

 

 

「国家神道」は戦時下の反日宣伝 

 

日本の敗戦当時、米英側の日本理解はどの程度であったか、再考したい。

『源氏物語』の英訳が一九三三(昭和八)年に完結したとき、訳者ウェイリーは日本語を独学したと評判となったが、学ぼうにも、英米には本格的に日本語を専門に学ぶ日本語学校はなかった。

 

 

「神道はナチズム」と断罪

 

その程度の日本理解の西洋だが、米国の偉さは一九四三年、勝利の見通しがつくや、戦後の日本処理準備を始めたことだ。国務省のボートンらは、当時、最高の日本通といわれた日本勤務三十七年、日本史家でもある、駐米英国公使サンソムの意見をまず聴いた。

 

「戦後は日本軍部の特権を廃し、議会を強化、議院内閣制を樹立すべきで、天皇制の廃止を強いてはならない」とサンソムは述べ、滞日十年の前駐日米国大使グルーも「天皇と天皇制が日本の侵略的軍国主義の根底にあるとみなす人々は歴史の事実にうとい」と言い、軍部関係者により、好戦的選民思想に結びつけられたにせよ、神道を諸悪の根源と言うのは誤りだとした。

 

しかし、米世論は、敵国ドイツとの類推で、日本を断罪した。天皇はヒトラー、大政翼賛会は日本のナチス党、神道はナチズムとし、戦後ニュルンベルク裁判の極東版として、東京裁判を開いた。

 

『ニューヨーク・タイムズ』は「近代の神道は、ナチズムと同様、膨張主義の教義と化し、全世界を日本天皇の支配下に統合することを説いている」として、「神道は基本的には祖先崇拝」と述べたグルーを、「専制的神政政治を擁護するつもりか」と非難した。

 

維新前後は尊皇攘夷を叫んだ神道家だが、開国和親の新政府内で力は衰えた。在日英米人は、神道に対し否定的で、サトウ、ヘボン、チェンバレン、アストンらは、「神道は内容空虚で宗教の名に値せず」文明開化とともに消滅する、と判断し、伊勢神宮は掘っ立て小屋程度などと言った。

 

 

「軍国主義」源泉と廃止指令

 

しかし、日清、日露戦争に勝利した日本で、神道は盛んとなる。するとチェンバレンはそれを官僚による「新宗教の発明」と呼び、音頭取りの一人は『武士道』の著者だとした。わが国では国際主義者の代表格の新渡戸稲造も、日本愛国教の教祖扱いだが、そんな神道に対する恐怖感は、第二次大戦中、自己犠牲をいとわぬ神風特攻隊が出現するに及んで、天皇を現人神(あらひとかみ)とする神道の宗教的狂信ゆえという説明となった。

 

一九四五年九月二日の降伏文書調印の四日後、ワシントンは米国の初期対日方針を連合国軍総司令部(GHQ)に打電した。

 

「日本国ハ完全ニ武装解除セラレカツ非軍事化サレルベシ。軍国主義オヨビ侵略主義ノ精神ヲ表示スル制度ハ、強力ニ抑圧セラルベシ。宗教的信仰ノ自由ハ占領トトモニ直チニ宣言セラルベシ。同時ニ、日本人ニ対シ超国家主義的オヨビ軍国主義的組織オヨビ運動ハ、宗教ノ外被ノ陰ニ隠ルルヲ得ザル旨ヲ明示セラルベシ」

 

総司令部は、「日本国民を国定宗教から解放する」と言い、官公立学校における神道教育の廃止を指令した。宮城遥拝(ようはい)や勅語(ちょくご)朗読はあった。だがそれで神道を日本の国教だと決めつけるのは無理である。国公立の学校に宗教の授業はなかった。私は戦前の小学校で神道について習ったことはない。

 

米占領軍は神社神道を国家神道と呼び、極端に恐れた。秋祭りに復員兵姿の若者が神社境内に集まり太鼓をたたくや「さては反乱か」と動揺した。神道指令を無視し神道に言及した教授は教職から追放された。さわらぬ神に祟(たた)りなし、と私も神道や国学は長い間敬遠した。

 

 

宗教風俗正確に描いたハーン

 

だが、戦前は宣教師として在日、戦中は対日情報戦勤務、戦後は総司令部宗教文化資源課で働いたウッダードは、占領軍の宗教政策を論文に総括し、日本宗教の中で神道を見せしめに鞭(むち)でたたいた、間違っていたと後年述べた。

 

米英にも日本を別様に見る少数の士もいた。小泉八雲ことハーンは出雲の宗教風俗を正確に描いた。マッカーサーに随行した副官フェラーズ准将は厚木に着くや、旧知の女性教育者、河井道らに再会した。恵泉女学園を創設した河井は日本の国柄を大切にするキリスト教信仰者で、フェラーズ同様、ハーンの愛読者である。河井の意見を確かめるや、副官は「八月十五日、玉音放送によって平和が回復したことで、民衆はかつてなく天皇を身近に親しく感じている」とマッカーサーに報告した。

 

だが、正体不明確な国家神道なる観念にこだわり、非難する評論家や学者が日本に多い。山口輝臣編『戦後史のなかの「国家神道」』には朴輪貞の皮肉な指摘がある。日本の教科書には、いつ形成されたか説明もないのに、国家神道の解体だけは記されている、と。

 

そんなState Shintoの正体とは何か。宗教学的解明より、戦時下米国の反日プロパガンダで創られた悪玉イメージとして調べる方が先決ではあるまいか。(ひらかわ すけひろ)

 

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■ 安全ではない「日本語」

 

 

産経新聞の書評に、齋藤孝氏の「なぜ日本語はなくなってはいけないのか」の書評、安全ではない「日本語」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

重要な問題だと感じますね。

2022/05/22

 

 

学芸万華鏡

日本語消滅の可能性も ロシアのウクライナ侵攻、斎藤孝氏が警鐘

2022/5/2 06:00 寺田 理恵

 

「言語は先人の精神を継承してきたもの」と説く齋藤孝明木教授 
「言語は先人の精神を継承してきたもの」と説く齋藤孝明木教授 

 

さいとう・たかし 昭和35年、静岡県生まれ。東京本法学部卒。同大大学院教育学研究科博士課程を経て明治大文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュ三ケーション技法。 『身体感覚を取り戻す』『声に出して読みたい日本語』など著書多数。

 

 

安全ではない「日本語」

 

「日本自治区」が誕生しないという保証はない-。ベストセラー「声に出して読みたい日本語」で知られる斎藤孝・明治大教授が、日本語の消滅可能性と継承策を論じる新著を刊行した。中国が新疆(しんきょう)ウイグル自治区などで進める中国化を批判し、日本語を取り巻く現状に警鐘を鳴らしている。またインタビューでは、ロシアのウクライナ侵攻について「日本語がそれほど安全ではないと教えてくれる」と語った。

 

 

アイデンティティー守る戦い

 

「日本自治区」が誕生しないという保証はない-。ベストセラー「声に出して読みたい日本語」で知られる斎藤孝・明治大教授が、日本語の消滅可能性と継承策を論じる新著を刊行した。中国が新疆(しんきょう)ウイグル自治区などで進める中国化を批判し、日本語を取り巻く現状に警鐘を鳴らしている。またインタビューでは、ロシアのウクライナ侵攻について「日本語がそれほど安全ではないと教えてくれる」と語った。

 

本書は南米の高度文明と言語が16世紀の植民地化で失われた歴史をひもとき、中国共産党の異文化弾圧によりウイグル語やモンゴル語が奪われようとしている状況を、自分たちの問題として捉えるよう促す。

 

さらに、小国が大国に領土を奪われた事例として、2014年のロシアによるウクライナ南部クリミァ半島の併合を挙げる。民族のアイデンティティー(存在証明〉の中核である言語の重要性と、言語は意識的に守らなければ継承できないという危機感を訴える内容だ。

 

 

今回のロシアによるウクライナ侵攻を受け、「国が統治権を失うと、その国の言語も存立が危うくなる。ウクライナがロシアに全て占領される事態になれば、ウクライナ語が今までのようには存続しにくい状態になるだろう」との見方を示した。

 

 

ウクライナ侵攻 もっと危機意識を

 

その上で、「今回の抵抗は、ウクライナ語を中心としたウクライナ人のアイデンティティーを守る戦いである」と定義づけた。

 

日本語にっいても、「平時であれば守られるが、新彊ウイグル自治区などをみていても、必ずしも安全だというわけではない。今回のロシアによる侵攻は、日本語がそれほど安全ではないということを教えてくれる」と注意を喚起した。 

 

 

なぜ言語がアイデンティティーの中核なのか。「思考の内容や感じ方は日本語という文化に支えられてる。言語が変われば考え方、感じ方、社会の常識、全てが変わっていく。言語は無数の先人によってつくられ、その中に先人の精神が入つている。言語は先人の精神を継承してきたもの」と説く。

 

例えば、桜を詠んだ和歌が数多く伝わっていれば、桜に関する感性が継承されていく。日本語は単なるコミュニケーションの道具ではない。本書では、グローバリゼーションの潮流に乗った「英語一強状態」に懸念を示し、日本の精神文化が失われつつある現状を多角的に検証した。

 

古文や漢文を「オワコン」(終わつたコンテンツ)などと呼んで軽視する風潮に異議を唱えている。「常用漢字表」や小学生の「学年別漢字配当表」によって教科書の文章で難しい漢字が使いにくい状況が生じていることも問題視している。

 

 

どうすれば日本語を守ることができるのか。

 

一つは、名文を音読し、優れた日本語を体のリズムで覚えることだという。特に文語体の日本語だ。「言葉と精神は一体のもの。文語体は日本人が千年以上培ってきた精神の在り方が入っているので、文語体を含め名文に触れていくことに意義がある」とする。 

 

AI翻訳にも「世界中の人と母語でつながり合える」と期待をかける。アニメの主題歌などインターネットの動画で流れる日本人の歌には、さまざまな言語でコメントが書き込まれる。翻訳機能を使えば、英語を介さなくても直接いろいろな言語間で瞬時に翻訳される。母語の異なる者同士が互いにコメントを読み合うこともできるという。

 

 

「百人一首や伝統芸能も取り上げるNHK教育テレビの子供番組「にはんごであそぼ」の総合指導を務めるなど、日本語の教育に力を尽くしてきた。古典を重視する一方、トレンドにも敏感だ。

 

本書では、バラェティー番組「プンバト!!」の企画「俳旬の才能査定ランキング」が牽引する俳句ブームにも希望を見出している。俳句を学ぶと季語をたくさん知り、感性が豊かになるとしている。

 

現代の日本では、身の回りにカダカナ英語があふれ、ロシアと中国はいずれも日本の隣国である。本書は、「平和ボケ」でいては日本人のアイデンティティーを守れないと気づかせてくれる一冊だ。(寺田理恵)

 

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■ 日本の最も良き理解者ストークス氏

 

 

産経新聞評伝に、ヘンリー・ストークスさん逝去の記事が載っていましたので掲載します。

 

惜しい人がまた亡くなりました。近現代史において日本を良く理解していた人でした。

2002/05/13

 

 

日本の最も良き理解者ストークス氏

2022/5/11 17:58

評伝 岡部 伸

 

ヘンリー・S・ストークス氏
ヘンリー・S・ストークス氏

 

1938年、英国サマセット、グラストンベリー生まれ。61年、オックスフォード大学修士課程修了後、62年にフィナンシャル・タイムズ入社、64年、初代東京支局長。67年、タイムズ東京支局長、78年、ニューヨーク・タイムズ東京支局長を歴任。三島由紀夫と最も親しかった外国人記者として知られる。著書に「三島由紀夫 死と真実」「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」、編著「光州暴動」、共著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」「目覚めよ!日本」「連合国戦勝史観の徹底批判!」など。

 

 

「父が旅立ち、最期は母の腕の中で安らかに眠り、静かに見送りました」

 

タレントのハリー杉山さん(37)から父親の英国人ジャーナリスト、ヘンリー・スコット・ストークスさんの逝去(83歳)の訃報を電話で受けたのは4月19日夜だった。

 

50年以上、親交がある外交評論家の加瀬英明さんは、物事を善悪でなくフェアで判断する英国の知識人で、日本の最も良き理解者の一人だったと評し、「現代の(真の日本文化を世界に広めた)ラフカディオ・ハーンだった」と悼んだ。

 

1938年、英国南西部サマセット州グラストンベリーに生まれ、オックスフォード大学修士課程修了後の64年、英紙フィナンシャル・タイムズ初代東京支局長として来日。67年から英紙タイムズ、78年からは米紙ニューヨーク・タイムズでそれぞれの東京支局長を務め、日本外国特派員協会最古参として日本を正しく把握し、発信した。

 

安倍晋三元首相の父親の安倍晋太郎元外相、祖父の岸信介元首相を取材した唯一の外国人記者だった。

 

2013年、著書「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」に「いわゆる『南京大虐殺』はなかった」と記し、世界の既成概念に欧米人で初めて挑戦した。連載「話の肖像画」のインタビューでは、「日本が悪く、南京大虐殺はあったと信じていたが、滞日が長くなるにつれ、米国が押しつけた歴史観が誤りと認識できた。反日国家のプロパガンダに惑わされず、日本は誇りある国になってほしい」と励まされた。

 

そして日本が侵略したというのは「連合国側の戦勝国史観」と言い切り、「日本はアジア諸国を白人支配から解放した」と訴えた。連合国軍総司令部(GHQ)の洗脳で自虐史観を植え付けられた日本人に自信と誇りを持たせる発言に感動し、ロンドン支局長として渡英した際、ハリーさんが卒業した学校に長男を通わせるなど家族ぐるみの交際を続けてきた。

 

ストークスさんが、「日本」を理解した背景に作家、三島由紀夫との出会いがある。三島は、米国に日本が「属国化」されたことを嘆き、「日本魂を護る」ため、連合国戦勝史観の呪縛からの脱却を唱えた。ストークスさんが英語で書いた三島由紀夫伝は、英米などで名著となった。

 

戦後、急成長した日本人の行動の源を知りたくて来日したが、暮らすうち日本の洗練された文化などに魅せられ、あき子夫人と結婚し、とどまった。

 

シャイで注意深く節度があり、あまり直接的に発言しない-。同じ島国である日英の共通点が、日本に順応できた理由だろう。両国関係が急接近している今、ストークスさんを失ったことは誠に残念だ。

 

父親として、一人息子のハリーさんに「私以上に文才がある。将来、活字メディアでも力を発揮してほしい」と期待していた。ハリーさんは気丈に語った。

 

「無償の愛を注いでくれた父の魂を受け継いで一生懸命生きます」(論説委員 岡部伸)

 

 

 

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産経新聞、話の肖像画

 

ヘンリー・S・ストークス(1)日本は白人支配からアジアを解放した

2015/6/29 08:20

 

 

□元ニューヨーク・タイムズ東京支局長

 

〈半世紀にわたり日本に滞在、日本外国特派員協会で最古参だ。著書「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社)は、「在日外国人記者がはじめて書いた正しい近・現代日本史」(評論家の宮崎正弘さん)などと話題を集め、出版依頼が相次いでいる〉

 

多くの読者の皆さまに感謝します。「東京裁判は勝者の復讐(ふくしゅう)劇にすぎない」「いわゆる『南京大虐殺』はなかった」と世界の既成概念に欧米人で初めて挑戦したことに興味を持っていただいた。ただ私は歴史に対して公平でありたかったのです。

 

 

〈初めて日本に来たときは、戦勝国史観に立ち、「日本は悪かった」「東京裁判は正しく、南京大虐殺はあった」と信じていた〉

 

滞日が長くなるにつれて、霧が晴れるように米国が押しつけた歴史観が誤りであることを悟り、歴史的真実がどこにあるか認識できるようになりました。皆さんも反日国家のプロパガンダに惑わされず、歴史の真実を知って、日本が誇りある国になってほしい。

 

 

〈東京発の欧米特派員の報道には偏向した内容が少なくない。彼らの一部は日本を「肯定」する最長老に「修正主義者」のレッテルを貼った〉

 

滞日経験が浅い彼らのほとんどが勉強不足です。昨年5月に私の本について「南京虐殺否定 無断加筆 ベストセラー翻訳者」との捏造(ねつぞう)記事を書いた共同通信の若い米国人記者も、創作小説にすぎないアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」を史実のごとくに信じていました。米東部の名門大学を卒業したエリートですらこのレベルです。

 

私こそ「リベラル」。人種的偏見や差別に反対で、草の根の声を大切にしています。真実を壊す嘘を受け入れられません。しかし、日本でリベラルといえば、中国や旧ソ連を支持する左翼です。これはおかしい。

 

 

「日本は侵略した」と欧米や中国、韓国、日本の学者まで主張する

 

それは「連合国側の史観」。敵側の戦時プロパガンダです。確かに日本が欧米諸国のアジア植民地に軍事進攻したことは事実です。しかし、それ以前に侵略して植民地にしたのは欧米諸国です。日本は欧米の植民地を占領し、日本の将兵が宣教師のような使命感に駆られて、アジア諸民族を独立へ導いた。アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。西洋人は世界史を見直すべきです。日本はアジアを独立に導いた「希望の光」。「侵略」したのではなく「解放」し、独立に導いたのです。

 

アジア、アフリカ、北米、南米、豪州を侵略した西洋は謝罪していません。なぜ日本だけが謝罪しなければいけないのか。白人が有色人種を侵略するのは「文明化」で、有色人種が白人を侵略するのが「犯罪」とはナンセンスです。

 

 

〈欧米人にも同じ主張をする同志が出てきた〉

 

米国人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏は私の著書を読んで確信を持ったようです。弁護士のケント・ギルバート氏も賛同してくれました。特派員の後輩たちも続いてくれることを期待します。(聞き手 岡部伸)

 

ヘンリー・S・ストークス氏
ヘンリー・S・ストークス氏

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■ 日本民族「性悪説」の檻から出よ

 

 

産経新聞正論に気になる記事が載っていましたので、掲載します。

 

戦後の日本民族の歴史観の問題か。精神における主権回復が必要。

2022/05/12

 

 

日本民族「性悪説」の檻から出よ 

モラロジー道徳教育財団教授・麗澤大学客員教授・西岡力

2022/5/11 08:00

 

西岡力氏 
西岡力氏 

 

西岡 力は、現代朝鮮研究者。麗澤大学客員教授。公益財団法人モラロジー研究所歴史研究室長・教授。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会会長。東京都生まれ。

 

わが国が主権を回復して70年になる。ところがロシアの侵略戦争を前にしても憲法を改正して国軍を持つという主権国家なら当然なすべきことを未(いま)だにできないでいる。その根本的理由は日本民族「性悪説」の檻(おり)に閉じ込められ、精神における主権回復ができていないことだと、私は考えている。

 

 

憲法にも歪んだ歴史観

 

そのことは、憲法前文の「日本国民は、…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意(する)」という一節に象徴される。ここに書かれている「政府の行為」とは何を意味するのか。13歳の少女を拉致した北朝鮮のような無法行為を指すのか。そうではない。現行憲法は占領軍が英文で原案を作った。だから、英文のその部分を見ると正確な意味がわかる。

 

「政府」にあたる英語「government」は単数形だ。つまり「政府の行為」とはわが国政府の行為を指している。わが国政府はほっておくとすぐ悪いことをするが、わが国以外は「平和を愛し」「公正と信義」を備えているとする日本民族「性悪説」が憲法前文に明記されているのだ。

 

憲法9条にも同じ「性悪説」が貫かれている。9条1項の国際紛争解決の手段としての戦争放棄は、国連憲章2条4項などにある国際法の規範をそのまま書いたもので日本国憲法の特徴ではない。フィリピン憲法にもイタリア憲法にも戦争放棄規定が存在する。

 

一方、「陸海空軍その他の戦力」の不保持を明記している2項は日本国憲法だけの特殊な規定だ。その裏には、日本民族は生まれつき暴虐で正義観念を持たないので戦力を持たせると再び世界征服を夢想して大量虐殺をしでかしかねない、という偏見がある。このような憲法を持つことは恥だが、その偏見を正当化するのが慰安婦「強制連行説」などの捏造(ねつぞう)された歴史認識だ。

 

昭和天皇はこの日本民族「性悪説」をめぐって命懸けの戦いをなさっていた。

 

 

昭和天皇の命懸けの戦い

 

昭和18年12月カイロ宣言は「日本国の侵略を制止し且之を罰する」ことを対日戦争の目的とし、ポツダム宣言では「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである」と、日本が世界征服に乗り出していたと書いた。

 

それに対して昭和天皇は終戦の詔勅で、大東亜戦争は「他国の主権を排し領土を侵すが如きは、もとより朕(ちん)が志にあらず」と明確に主張していた。その上で、国際法違反の原爆投下を「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して無辜(むこ)を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る」と非難し、このままでは「我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし」と述べた。

 

米軍の核攻撃こそが非文明であり、それにより文明国である日本が滅びたならば、人類の文明そのものが滅びると宣言されたのだ。

 

約80年たってロシアは、ウクライナへの侵略戦争で無辜の民を虐殺し核攻撃をすると脅している。ロシアこそが非文明だと叫ぶ資格をわが国は持っている。

 

私が読むたびに強い感動を覚えるのが昭和21年1月に出された「新日本建設に関する詔書」だ。この時期、連合国では昭和天皇を戦犯として処刑せよという意見が公然と出ていた。「朕となんじら国民との間の紐帯(ちゅうたい)は、…日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず」

 

日本が世界征服を行おうとしていたという連合国の決めつけを「架空なる観念」だと堂々と反論されたのだ。日本民族「性悪説」に命懸けで戦って下さった昭和天皇のお姿に心が揺さぶられる。

 

 

精神における主権回復を

 

東京裁判の判決は「1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議」があったとして、いわゆるA級戦犯を平和に対する罪で「有罪」としたが起訴状にあった「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」は証拠不十分のため訴因から除外した。連合国もさすがにわが国が「世界支配」を狙っていたとは言えなかったのだ。

 

連合国とわが国との先の大戦の戦争目的をめぐる歴史認識の対立は、冷戦の激化により大きく様相を変えた。米国はわが国を自由陣営の一員として確保することを最優先として対日講和条約交渉を進めた。サンフランシスコ講和条約と日米安保条約で、米国はわが国を主権を持つ対等な同盟国として認めた。講和条約のどこにも「世界征服」「侵略」などという歪(ゆが)んだ歴史認識は含まれていない。

 

だが、サンフランシスコ講和条約締結から70年たつのに、私たちはまだ精神における主権回復ができていない。いまこそ日本民族「性悪説」の檻から出て、自衛のための国軍を持つべき時だ。その第一歩が自衛隊の憲法明記の実現だ。(にしおか つとむ)

 

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■ 原子爆弾の開発からソ連による侵攻までの流れ

 

 

Harano Timesに掲載された、ウォード・ウイルソン氏の2013年の講演「日本が降伏した理由は本当に原爆なのか?2013」の特集の中で、「原子爆弾の開発からソ連による侵攻までの流れ」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

日本の降伏がソ連の参戦ということであれば、アメリカによる核爆弾投下は必要なかったということになりますね。ヤルタ会談の密約がすべてか。

2022/05/01

 

 

日本が降伏した理由は本当に原爆なのか?2013講演 

ウォード・ウィルソン

「日本が降伏したのは、ソ連が参戦してきたからです」

 

 

ウィルソン,ウォード[ウィルソン,ウォード] [Wilson,Ward]

British American Security Information Council(BASIC)の核兵器再検討プロジェクト(Re‐thinking Nuclear Weapons Project)のディレクター兼主任研究員。元モントレー国際大学ジェームズ・マーティン不拡散研究センター主任研究員。国際連合、スタンフォード大学、プリンストン大学、ジョージタウン大学、米国海軍大学等多数の政府機関、大学、シンクタンク等で核軍縮に関する講演を行っている。

 

1945年2月 ヤルタ会談(ヤルタ密約)
1945年2月 ヤルタ会談(ヤルタ密約)

 

 

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「原子爆弾の開発からソ連による侵攻までの流れ」

 

■1939年、ドイツが原爆開発のための実験を開始

 

■1939年、ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れたドイツからの亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りて、ルーズベルト大統領に親書を送った。

 

■1942年10月

ルーズベルト大統領は、核兵器開発プロジェクトを承認した。

 

■1945年2月

ヤルタ会談(ヤルタ密約)、ドイツの降伏後2~3か月以内に「日ソ中立条約」を破棄し、ソビエトが日本領土を侵攻するという密約をした。

 

■1945年3月

連合国の調査により、ドイツが原爆の開発を中止したことが確認された。

 

■1945年4月30日

アドルフ・ヒトラー自殺

 

■1945年5月7日

ドイツが降伏文書に調印

 

■1945年6月11日

フランク・レポート

ジェイムズ・フランク(アメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人物理学者)ら7人の科学者による委員会が、大統領の諮問委員会に報告書を提出した。

報告書では、日本に対する原子爆弾の無警告での使用に反対していたが、その提言は拒絶された。

 

■1945年7月16日

人類最初の核実験(トリニティ実験)成功

トリニティ実験は、爆縮型プルトニウム原子爆弾の原爆実験で、同型の爆弾「ファットマン」が後に日本の長崎に投下された。

 

■1945年7月26日

ポツダム宣言が、イギリス、アメリカ、中華民国の名において日本に対して発布された。

 

■1945年8月6日

広島に原爆投下

広島市に投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、核分裂物質としてウラン235が使われていた。

このタイプの原子爆弾は核実験が行われていなかったが、爆縮型の原爆に比べて構造がはるかに単純なため、ほぼ間違いなく正常に作動すると予想されていた。

また、大量のウラン235を必要とすることから、この時点で獏だ1発しか生産できていなかった。

(実質的に、広島が「初実験」の場となった)

 

■1945年8月9日

長崎に投下

トリニティ実験でテストされたのと同じ爆縮型タイプのプルトニウム爆弾「ファットマン」

 

■1945年8月9日

ソ連軍、満州侵攻開始

 

■1945年8月11日

ソ連軍、樺太侵攻開始

 

■1945年8月14日

日本はポツダム宣言を受諾し、連合国へ通告

 

■1945年8月15日

日本国民に敗戦が発表された(玉音放送)

 

■1945年8月18日

ソ連軍、千島列島上陸作戦開始

 

■1945年8月29日

ソ連軍、択捉島を占領

 

■1945年9月2日

日本の降伏文書が調印された。

 

■1945年9月1日~4日

ソ連軍、国後島、色丹島を占領

 

■1945年9月3日~5日

ソ連軍、歯舞群島を占領

 

■1945年9月5日

ソ連軍、一方的な戦闘攻撃をようやく停止

 

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■ 主権回復70年

 

 

産経新聞主張に、「主権回復70年・・占領の呪縛を解くときだ、ウクライナの悲劇から学べ」の記事が載っていましたので、掲載します。

 

主権回復して70年の節目ですね。色々考えさせる内容でした。

2022/04/029

 

 

産経新聞 主張コラム 2022/4/28 05:00

主権回復70年 

占領の呪縛を解くときだ ウクライナの悲劇から学べ

 

サンフランシスコ講和条約から70年 
サンフランシスコ講和条約から70年 

 

 

昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復してから70年の節目を迎えた。

 

主権は、自国の進む道を他国に干渉されずに決していく独立国の証(あかし)だ。それがいかに大切であるかは、ロシアによるウクライナ侵略を見れば一目瞭然である。ウクライナ国民は祖国の自主独立、すなわち主権を守るために、侵略者に対して立ち上がった。

 

国際法上、講和条約の発効によって戦争は最終的に終結する。日本の戦後が本当に始まった70年の節目であるにもかかわらず、主権回復の意義が十分には理解されていないのは残念である。

 

 

実は過酷だった「占領」

 

日本では、主権を失って連合国軍総司令部(GHQ)の言いなりになるしかなかった占領期の6年余と主権を取り戻した70年間を同じようにとらえる向きが多い。それこそが占領の呪縛である。

 

GHQの指令は日本の政治や経済、社会の隅々にまで及んだ。政府と国会はあっても自主性はなかった。GHQの意向に反するものは認められなかった。

 

教科書は墨塗りされた。新聞、出版、映画、放送などのメディアは検閲を受けた。しかも検閲制度への言及さえ禁じられた。報道、言論が統制された占領下の日本に自由はなかった。

 

敗者を事後法によって断罪した東京裁判の弊害は今に及んでいる。日本の立場を全く顧みず、連合国側に都合のいいように歴史が書き換えられ、自虐史観が植えつけられた。

 

憲法とは、主権があってはじめて制定、改正されるべきものであるのに、GHQ側は「天皇の一身の保障はできない」という究極の脅し文句をつかい、米国人スタッフがわずか1週間で作った草案を押し付けてきた。主権喪失の中で作られた現憲法を日本国民は主権回復から70年たっても改正できないでいる

 

 

70年前の主権回復後も、沖縄や奄美群島、小笠原諸島では米軍の統治が続いた。沖縄をめぐって、本土と切り離された主権回復の日を「屈辱の日」と難ずる人もいるが、見当違いといえる。

 

サンフランシスコでの講和条約受諾演説の際、吉田茂首相(当時)は、沖縄の主権は日本に残されたとして「一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待する」と明言した。

 

米国は当初、沖縄を日本から切り離し、信託統治領にしようとしていた。講和条約にも、米国が望めばいつでも信託統治領にできる条文が盛り込まれた。

 

だが、日本政府が懸命に巻き返し、沖縄の潜在主権を世界に認めさせた。政府は沖縄返還を諦めず、講和条約発効から20年後の昭和47年に、沖縄は本土復帰を果たした。

 

 

抑止力構築し日本守れ

 

主権は回復したが、いまだ完全ではなく、その上、今も脅かされている点も銘記すべきだ。

 

主権が及ぶべき北方領土と竹島はロシアと韓国に不法占拠されたままだ。北朝鮮による日本人拉致も重大な主権と人権の侵害だが、解決されていない。

 

さらに、中国が沖縄の島を奪おうとしている。日本は尖閣諸島を実効支配しているが、周辺海域では中国海警局船が徘(はい)徊(かい)し、領海侵入を繰り返している。地理的に近いことから日本有事に直結しかねない台湾有事も懸念される。

 

ウクライナは対露抑止に失敗してしまった。防衛力が弱いとみなされて侵攻された。政府と国民が主権が及ぶ領土・領海・領空を守り抜く意志を示し、態勢を整えておくことが抑止力になる。ウクライナの悲劇から学ぶ点は多い。

 

日本の学校教育では、国民主権は何時間もかけて教える一方で、国の主権の大切さは授業でほとんど扱われていない。近年の教科書検定でようやく北方領土や竹島、尖閣諸島が「固有の領土」と記されるようになったが国の主権と絡めた領土防衛の視点は皆無だ。

 

日本には国に冷淡すぎる「知識人」が存在し、それが進歩的とみなされる時期さえあった。彼らは日本を守ろうとして亡くなった人々を祀(まつ)る靖国神社への公人の参拝を批判してきた。

 

これではいけない。主権回復の70年の節目に、領土を守り、自由で独立した、主権を持つ日本を子孫へ引き継いでいく大切さに思いを馳(は)せたい。

 

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■ サンフランシスコ講和条約70年(3)

 

 

産経新聞に、気になる「サンフランシスコ講和条約70年」の特集記事(3)が載っていましたので、

書き起こして掲載します。

 

政府の毅然とした姿勢と「主張が」、まったくないということですね。残念ですが。

2022/04/22

 

 

産経新聞 主権回復 2022/4/5 08:00

第2部 サンフランシスコ講和条約70年(3) 

 

不法占拠され続けている領土
不法占拠され続けている領土

 

 

固有領土、奪われたまま 

 

露の野望 重なる北方領土とウクライナ

 

●ポイント

・ウクライナと北方領土は同根

・領土主権の回復阻む「新冷戦」

・竹島問題で目立つ米韓への遠慮

 

 

4月28日でサンフランシスコ講和条約発効から70年となる現在の日本は、東西対立の構図が明確になりつつあった当時と同様に、「引き裂かれた世界」に身を置いている。いまの国際社会の断線の一つは、ロシアが軍事侵攻によって一方的な領土の現状変更を図ろうとしているウクライナだ。日本もその対立と無縁ではいられない。

3月21日、ロシア外務省は日本との平和条約の締結交渉を停止するとともに、ロシアが不法占拠する北方領土の元島民の墓参などを目的としたビザなし交流を一時停止すると発表した。

首相の岸田文雄にとってロシアの措置は織り込み済みだった。日本政府は2月24日のロシアによるウクライナ侵攻を受け、ロシア大統領プーチンの個人資産凍結を含む経済制裁を発動していた。 一国の元首に対する制裁は異例だ。政府高官はローマの軍人カエサルの故事になぞらえ「あれでルビコン川を渡った」と振り返る。 

 

岸日はまた、3月17日の参院予算委員会で、北方領土がロシアによって「不法占拠されている」と明言した。政府が国会答弁で「不法占拠」と表現したのは13年ぶりだった。

 

 

吉田の苦情と憂慮

 

1951(昭和26)年9月7日、米サンフランシスコのオペラハウスで、首相の吉田茂は各国代表団を前に講和条約を受諾する演説を行った。晴れて主権を回復する条約の署名式を翌日に控え、吉田は不満を口にした。

 

「多数国間における平和解決にあっては、すべての国を完全に満足させることは不可能だ。日本人すらも

若干の点について苦情と憂慮を感じる」

 

吉田の「苦情と憂慮」はソ連による北方領上の占領と、沖縄と小笠原諸島が米軍施政下に置かれたままであることに向けられた。

 

吉田は早期の独立回復を目指すため、ソ連などを除く「部分講和」に踏み切った。東西対立の中、西側陣営の国として生きることを選択したのがサンフランシスコ講和条約だった。

 

この選択は、結果として日本の領土主権に今も影を落とす。沖縄は1972年に本土復帰を果たすが、北方領土における状況は全く変わっていない。

 

 

対露包囲網に影響

 

北方領土とウクライナ。この2つの問題は、ロシア政府がいずれの問題でも、米国が安全保障上の関与をしないことを条約の形で約束するよう求めている点で類似する。 

 

プーチンは、米国が主導する北大西洋条約機構(NATO)にウクライナが加盟しないよう確約することを求めている。一方、北方領土に関しては、日本に返還したとしても米軍が駐留しないことを条件としていた。

 

首相時代にプーチンとたびたび会談した安倍晋三は、米軍駐留を認めないよう繰り返し迫られた。

 

あんな寒いところにアメリカ人が行きたがるわけがないじゃないか」

 

安倍は冗談も交えてプーチンの理解を得ようとしたが、ロシアの要求が変わることはなかった。

 

そして、日露首脳は2018(平成30)年11月、シンガポールでの会談で一つの合意に達した。

 

シンガポール合意は、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すとした1956年の日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速すると確認したものだ。政府は表向き否定するが、北方四島ではなく「2島返還」で手を打つ姿勢を示したと理解されてきた。

 

前首相の菅首相も安倍の路線を引き継ぎ、岸田も昨年10月のプーチンとの電話会談後に「シンガポールの合意を踏まえ平和条約交渉に取り組んでいくことを確認した」と述べていた。

 

だが、ウクライナを侵攻した今となっては、ロシアとの領土交渉は先進7カ国(G7)による対露包囲網の足並みを乱すだけだ。

 

それ以前に、自らの帝国主義的な野望に従って他国の領土を侵路することをためらわないプーチン政権では、過去にソ連が占領した土地を手放すことなど期待すべくもない。(敬称略)

 

 

大国の思惑、領土問題を翻弄

竹島、透けて見える米韓への遠慮

 

日ソ共同宣言が締結される直前の1956(昭和31)年8月、米国務長官のジョン・フォスター・ダレスは外相の重光葵に対し「日本がソ連案を受諾する場合は、米国も沖縄の併合を主張しうる」と通告した。重光はこのとき、ロシアとの領土返還交渉で歯舞群島と色丹島の「2島返還」での妥結に前向きな姿勢を示していた。

 

敵と味方を峻別するよう迫った米国の圧力は、日本の外交官に「ダレスの恫喝」として記憶されている。ソ連の脅威に対して日本の独立を守るには、西側陣営の一員として旗幟を鮮明にしなければならない。だが、北方領土の返還を目指す上で、米国は時に障壁として立ちはだかる。外務省幹部は「ワシントンは時々ダレスみたいなことをやってくる」と語る。

 

実際、ロシアとの交渉に前向きだった元首相の安倍晋三に対し、オバマ元政権は慎重に考慮するようたびたび求めた。現大統領のジョー・バィデンも日本に「弱腰」な対露姿勢を許さないだろう。米露のせめぎ合いが激化する中、日本の領土主権の完全回復は再び後回しとなっていく。

 

 

揺れた佐渡島推薦

 

今年に入リウクライナ情勢が緊迫する中、首相の岸田文雄は別の問題でも悩んでいた。「佐渡島の金山」(新潟県)の世界文化遺産への登録を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦するかどうか。判断の期限である2月1日を控え、岸田が自民党重鎮らに推薦見送りの場合の理由を示した。「米国の反応がどうなるかわからない」

 

バイデンは、「中国と対峙する上で同盟国の結束を重視する。特に、日米韓の連携は、北朝鮮による核・弾道ミサイル開発に対処する上でも死活的に重要だ。

 

日本政府が「佐渡島の金山」を推薦すれば、韓国政府は歴史的事実と異なる「韓国人強制労働の痛ましい歴史」を強調して反対するのは日に見えていた。だが、同時に岸田が気にしたのは、日本が日米韓の足並みを乱したと米政府に受け止められることだった。

 

岸田は結局、「佐渡島の金由」の推薦を決定したが、一連の過程では、日韓関係は米国の存在を抜きにして考えられないという事実が改めて浮き彫りとなった。それは、日本の対韓外交の宿命として、70年前にサンフランシスコ講和条約が発効する直前に鮮烈に印象付けられていた。

 

 

主権より安保体制

 

1952年1月18日、当時の韓国大統領、李承晩は韓国周辺の公海上に線を引き、日本漁船の進入を禁止する「隣接海洋に対する主権宣言」を行った。いわゆる「李承晩ライン」だ。

 

戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は日韓間の海域に日本漁船の操業区域を指定していた。「マッカーサー・ライン」とも呼ばれ、竹烏(烏根県穏岐の烏町)は含まれていなかった。

 

だが、米政府は同年4月28日の講和条約発効に伴い、竹島を日本領とし、マッカーサー・ラインは消滅する運びとなっていた。そこへ「力による一方的な現状変更」を行ったのが李承晩ラィンだったのだ。

 

日本は反発したが、当時の日本はまだ独立を回復していない。自衛隊も発足しておらず、竹島をめぐり自衛権を行使する選択肢はなかった。その後、米国の仲介で首相の吉田茂と李が会談し、中断していた日韓基本条約締結に向けた交渉を再開させることで合意せざるを得なかつた。 

 

李承晩ライン設置以降の70年間、竹島は韓国に不法古拠されている。日本政府は3回にわたり、竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に提訴する姿勢を示した。しかし、ICJ訴訟は当事国が同意しなければ成立せず、韓国政府は拒否を繰り返している。

 

サンフランシスコ講和条約と、日米安全保障条約締結による西側陣営への参加は、韓国による竹島の不法占拠を招いた。少なくとも竹島に関しては、主権よりも米国を中心とする安全保障体制によって提供される平和が優先されてきた。

 

「領土や主権という、わが国の根幹にかかる極めて重要な課題だ。毅然とした態度でわが国の立場を韓国側に伝え、今後も粘り強く対応していく」。今年2月22日、内閣府政務官の小寺裕雄は島根県などが「竹島の日」に合わせて開いた記念式典で、こう強調した。政務官の出席は10年連続だ。政府内では閣僚レベルの出席も検討したが、見送られた。ここでも米国や韓国に対する遠慮が透けてみえる。〈敬称略)

 

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■ サンフランシスコ講和条約70年(2)

 

 

産経新聞に、気になる「サンフランシスコ講和条約70年」の特集記事(2)が載っていましたので、

書き起こして掲載します。

 

ここまでくると、自民党政治家の怠慢ですね。

2022/04/21

 

 

産経新聞 主権回復 2022/4/4 08:00

第2部 サンフランシスコ講和条約70年(2)

 

日本国憲法前文比較
日本国憲法前文比較

 

 

■憲法前文 国柄なく難解

 

憲法前文 国柄なく難解 諸文書切り貼り GHQのお仕着せ

 

●ポイント

・GHQが押しつけた憲法の原型

・改憲に背を向ける政治家の怠慢

・全文は国のあり方を明示せよ

 

 

3月31日、日本国憲法の改正に関する審議を行う国会の常設機関である衆院憲法審査会が討議を実施した。主な議題は新型コロナウイルス禍やロシアのウクライナ侵攻、大規模自然災害のような「緊急事態」に関する条項新設の是非だ。

 

「有事の人権(の制約)に関して憲法上の規定を置いておくことは立憲主義の観点からも重要だ」(自民党の新藤義孝)

 

「憲法に人権を制約する規定を設けるべきではない」(立憲民主党の奥野総一郎)

 

2月10日に今年初めて開催して以降、緊急事態に関わる討議がほぼ毎週続いている。日本がコロナ禍に見舞われてからの2年余、改憲論議の最大の焦点だ。

 

一方で、審査会で話題に上らなくなったテーマがある。「憲法前文」だ 。

 

「国柄が書かれていない」「日本語が分かりにくい」―。日本国憲法は、敗戦から1年以上が過ぎた昭和21年11 月(連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で公布されて以降、常にこうした批判を受けてきた。

 

今年2月に死法した元東京都知事の石原慎太郎も、平成26年12月の政界引退記者会見で「あの醜い前文一つを見ても間違いが非常に多い。助詞の間違いが前文にたくさんある」と述べ、修正を熱心に訴えた。

 

日本財団が昨年5月に発表した「18歳意識調査」によれば、憲法の前文を読んだ、あるいは読んだ記憶が「ある」と答えたのは40%。このうち文章が「わかりやすかった」と答えたのは17%に過ぎず、「わかりにくかった」が49%、「わからない点がある」は34%に上った。

 

審査会も過去には平成25年5月に前文をめぐる討議を行っていた。24年4月には自民党が独自の憲法改正草案を発表し、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって・・・」で始まる前文の全面改訂を提案した。

 

だが、それ以降は国会でも自民党内でも前文に関する議論は進んでいない。自民党が30年3月に決定した改憲案は、自衛隊の明記や緊急事態条項創設など、国民の理解を比較的得やすそうな4項目に絞り、前文についての言及はなかった。

 

 

リンカーンの亡霊

 

前文をめぐる論議の根底にあるのは、日本国憲法が日本人の手で書かれていないという問題だ。

 

日本国憲法の原型はGHQの主導で作られた。

 

もともとはGHQが当時の首相、幣原喜重郎に憲法草案の策定を要求した。しかし、日本政府案は天皇の統帥権の維持などが明記され、そうした内容を「不十分」と考えた連合国軍最高司令官のマッカーサーは昭和21年2月3日、GHQ民政局長のホイットニーに憲法草案の作成を命じる。

 

翌4日にホイットニーは二十数人の民政局員を集め、各国の憲法や関連文書を参考に、わずか8日の突貫工事で草案を書き上げさせた。局員らの大半は軍人や軍属で、憲法の専門家は一人もいなかつた。

 

2月13日、ホイットニーは外相の吉田茂らと面会し、日本政府案を拒否する考えを伝えてGHQ草案を突然提示し、これを基に改めて草案を作るよう指示する。吉田らは驚愕したが、主権を喪失した日本政府に抵抗するすべはなかつた。

 

海軍中佐ハッシーが作成したGHQ草案の前文は、最終的に日本側の手で修正されたが、基本的な構造は変わらず、直訳されたような日本語は残った。 

 

現行憲法が作成されていた終戦直後に現職だった元国会議員らにインタビューした駒沢大名誉教授の西修によれば、翻訳調への不満を指摘する声は当時から相次いでいた。   

 

衆院議長を務めた故・原健二郎も異議を唱えた一人だ。留学経験があり、英語に堪能だった原は生前、「英文の憲法案が最初にあって、それを日本側が訳した。この一事をみても、押し付け憲法であることは間違いない」と答えている。

 

前文には海外の諸文書との類似点も多い。日本国憲法前文は「日本国民は」で始まり、「国家の名誉にかけ(中略)誓う」で終わる。米国憲法は「合衆国の国民は」で始まり(1776年の米独立宣言は「神聖な名誉をかけて相互に誓う」で終わる。 

 

前文が、第16代米大統領のリンカーンによるゲティスバーグ演説や1943年の対独共同作戦に関するテヘラン宣言などの切り貼りだと初めて指摘した米メリーランド大元教授のマクネリーは、著書で前文を「リンカーンの亡霊だ」と言い切った。(敬称略)

 

 

改憲をも阻む、政治家の不作為

繰り返されたその場しのぎの解釈

 

「陸海空軍その他の戦力を保持しない。国の交戦権を認めない」

 

日本国憲法9条は、日本の無力化を図った連合目軍最高司令官のマッカーサーが憲法草案に盛り込むべき必須要件として提示した3原則「マッカーサー・ノート」とGHQ草案を下敷きにしている。 

 

だが、昭和25年に朝鮮戦争が勃発するとマッカーサーは態度を変えた。日本に駐留する米兵が朝鮮半島に派遣され、その穴埋めとして武装組織である警察予備隊の創設を日本政府に指示したのだ。警察予備隊は保安隊を経て29年7月、自衛隊になった。

 

マッカーサーは22年5月の日本国憲法の施行後、1~2年以内に国会が改憲を検討し、国民投票を実施することを容認していた。27年4月の主権回復を控えた時期には、9条改正論が一時的に盛り上がった。しかし、首相になった吉田茂は「軽武装・経済成長重視路線」を掲げ、改憲に手を付けようとしなかつた。 

 

代わって横行したのが、米国の都合に合わせた政府見解や憲法解釈の変更という「つじつま合わせ」だ‐。

 

警察予備隊は「治安維持が目的で戦力ではない」。保安隊は「近代戦を有効に遂行し得る程度の装備編成ではないから『戦力』に該当しない」。自衛隊は「憲法は自衛権までをも否定しておらず、自衛のための必要最小限度の実力の保持は9条で禁止されていない」―という具合だ。

 

平成26年7月には安倍晋三内閣が、同盟国などが攻撃された場合に共同で防衛する「集団的自衛権」について、歴代内閣が行使できないとしてきた憲法解釈を変更し、限定的な行使を容認した。

 

 

国民の「慣れ」も壁

 

現行憲法は公布から76年間、現実に合わせるため解釈を変えられてきた。一度も改正されず、改憲の是非を主権者が判断する国民投票の機会さえなかったのは国会の不作為といえる。

 

一方、憲法改正の是非が国民投票で決まることを踏まえれば、国民世論の高まりが欠かせないが、現実はそうはなっていない。

 

産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)による歴代の合同世論調査で「内閣に取り組んでほしい政策」を複数回答で答えてもらう設間でも、「憲法改正」は毎回、回答率が1桁で、最下位が指定席になっている。

 

野党第一党である立憲民一主党代表の泉健太は今年1月9日、NHK番組で自民党に対してこう述べた。

 

「今の憲法の決定的な問題点は何か。今の憲法を変えなければ国民生活に支障のあるものは何かと逆に問いたい」

 

泉の発言は改憲論議が盛り上がるのを阻もうとする意図が見え隠れする一方、今の世論の空気も象徴している。改憲論者の石原慎太郎も政界引退記者会見でこう指摘していた。

 

「憲法は良い意味でも悪い意味でもこれだけ日本社会に定着してしまうと、国民の関心はあまりない気がする。本当に憲法を変えなくてはいけないと考えている人は、残念ながら希少な存在になったと思う」

 

改憲は、ましてや前文は生活への影響が見えにくく、選挙で票につながりにくいというのが定説だ。

 

元首相の安倍も、第2次政権下で実施した衆参5回の選挙のうち街頭で積極的に政憲を訴えたのは最後となった令和元年の参院選だけだ。現首相の岸田文雄は昨年10月の衆院選で改憲にほとんど言及しなかった。

 

だが、改憲とは国柄や主権の問題と密接に絡む問題だ。日本がどのような国であるべきなのかを明確にしなければならない現在にあって、政治家が前文も含めた改憲の問題を争点として隠そうとするのは怠慢ではないのか。

 

国民の「慣れ」と政治家の「不作為」。改憲を実現させるに、こうした「壁」を乗り越えていかなくてはならない。(敬称略)

 

日本国憲法公布
日本国憲法公布

 

 

日本国憲法は戦後70年以上たっても、1文字たりとも変えられでいない

 

昭和20年(1945)8月:日本が敗戦

昭和20年(1945)10月:日本政府が憲法問題調査委員会発足

昭和21年(1946)2月: 連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥が憲法三原則を提示。調査委は草案提示もGHQは拒否し、短期間で原案作成

昭和21年(1946)11月:日本国憲法公布

昭和22年(1947)5月:日本国憲法施行

昭和25年(1950)6月:朝鮮戦争勃発

昭和27年(1952)4月:サンフランシスコ講和条約発効、日本が独立回復。日米安保条約も発行

昭和29年(1954)7月:自衛隊創設

 

昭和30年(1955)11月:自民党結党。「党の使命」「党の政綱」文書に「現行憲法の自主的改正」明記

昭和32年(1957)8月:内閣に憲法改正を念頭に置いた「憲法調査会」発足

昭和39年(1964)7月:内閣憲法調査会が最終報告書提出。改憲は打ち出さず、調査会は40年に廃止

 

平成12年(2000)1月:衆参両院に憲法調査会設置

平成17年(2005)11月:自民党が「新憲法革案」発表。初めて条文を具体化

平成19年(2007)5月:憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立

平成19年(2007)8月:衆参両院に憲法改正の発議などを行う憲法審査会設置

平成21年(2009)8月:自民党が衆院選で大敗、野党に

平成22年(2010)1月:自民党が新綱領決定、「新憲法の制定を目指す」と明記

平成24年(2012)4月:自民党が「日本国憲法改正草案」発表

平成25年(2013)2月:安倍晋三首相が国会で「憲法改正に向けた国民的な議論を深めよう」と呼びかけ

平成27年(2015)9月:集団的自衛権の一部行使を容認した安全保障関連法成立

平成28年(2016)7月:参院選の結果、衆参両院で改憲勢力が3分の2を超える

平成29年(2017)5月:安倍首相が9条への自衛隊明記、2020年新憲法施行に意欲表明

平成30年(2018)3月:自民党大会で①9条への自衛隊明記②緊急事態条項③参院選「合区」解消④教育の充実―の改憲4項目条文素案決定

 

令和元年(2019)7月:安倍首相が参院選で憲法改正の実現を争点化し、自民党が勝利

令和3年(2021)6月:国民投票の利便性を公職選挙法とそろえる改正国民投票法が成立

令和3年(2021)10月:自身の自民党総裁任期中の憲法改正実現を目指す考えを表明していた岸田文雄元外相が第100代首相に就任

令和4年(2022)2月:ロシアウクライナ侵攻

 

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■ サンフランシスコ講和条約70年(1)

 

 

産経新聞に、気になる「サンフランシスコ講和条約70年」の特集記事(1)が載っていましたので、書き起こして掲載します。

2022/04/20

 

 

産経新聞 主権回復 2022/4/3 08:00

第2部 サンフランシスコ講和条約70年(1)

 

サンフランシスコ講和条約 
サンフランシスコ講和条約 

 

 

■同盟の結節点 日本が担う 

 

置き去りにしてきた役割 果たすとき

 

●ポイント

・国防での主権行使は今も不十分

・米国中心の同盟で連携強化を

・経済安保で攻勢をかけろ

 

 

1951(昭和26)年9月8日。首相の吉田茂は午前10時から、米サンフランシスコ市中心部にあるオペラハウスで日本を含め49カ国の代表とともに講和条約に署名した。そして、その日の午後5時頃、市郊外のプレシディオ陸軍基地内に場所を移し、日米安全保障条約の署名に臨んだ。

 

署名の会場には、吉田や蔵相の池田勇人ら日本側一行と、米国から国務長官のディーン・アチソン、国務長官顧問のジョン・フォスター・ダレス(後に国務長官)らが顔を連ねた。

 

「ここは広さといい立地といい、署名場所として最適でした。米国が、新たに同盟国となる日本に好意的だった証左です」

 

現在は国立公園となったプレシディオの歴史資料を管理するジョン・バートランドはこう話す。

 

そして、署名から7カ月余り経た52年4月28日、講和条約の発効をもって日本は先の大戦での敗北で喪失した「主権」を回復した。また、この日は日本が新たな国際安全保障体制に組み込まれた日でもあった。

 

講和条約署名の1週間前の9月1日、プレシディオでは米国とオーストラリア、ニュージーランドとの安全保障条約(ANZUS条約)が署名された。日本も、アジア太平洋で米国を中心に構築された同盟のネットワークである「サンフランシス体制」の一員になったのだ。

 

 

国防、米に依存

 

主権国家とは本来、「自分の国を自らの力で守る」べきものだろう。日本政府は主権について「国家の政治の在り方を最終的に決定する力」(平成14年3月8日に小泉純一郎内閣が閣議決定した政府答弁書〉であると定義している。一国だけで自国の安全保障を全うできない現実は昔も今も変わらない。ただ、日本はその主権を自ら十分に行使してきただろうか。

 

サンフランシスコ体制ができあがった70年前、自衛隊はまだ発足していなかった。米国では1948年、「自助と相互援助」が可能な国としか集目的自衛権に基づく取り決めを結べないとする「バンデンバーグ決議」が上院で採択された。当初の日米安保条約には日本に対する米国の防衛義務が朋記されなかつた。

 

55年8月、安保条約改定を目指す外相の重光葵と会談したダレスは、同盟の下では西太平洋の米領グアムの防衛も可能とする重光に「日本がそんなことをできると考えていたとは知らなかった」と鼻で笑った。条約改定で米国の防衛義務が規定された後も、米国に事実上、国防を委ねる構造は変わらなかった。

 

 

クアッド誕生

 

サンフランシスコ体制は当初、多国間同盟として構想された。しかし、ダレスが多国間同盟に日本も含めるよう提案したのに対し、米国以外のアジア太平洋各国はそろって反対した。

 

当時は各国の間で戦争の記憶が生々しく、敵国だった日本と同盟を結ぶことには抵抗が強かった。結果として生まれたのが、米国を軸に各国が放射状に2国間の同盟関係を結ぶ、自転車の車輪の「ハブ(車軸)とスポーク(細長い棒〉」に擬せられる体制だった。

 

70年前、米国は圧倒的な国力を誇り、敗戦で傷ついた日本やアジアの非共産主義国家を守る同盟ネットワークを築いた。だが今は、中国の台頭による米国の相対的な国力低下を受け、米国が核となって各国に庇護を提供する「ハブとスポーク」から、データを分散管理する「ブロックチェーン」のように、ネットヮ一クを構成する同盟諸国が相互連携して中国に対抗する構造に脱皮しつつある。

 

その典型例が日米とオーストラリア、インドによる4カ国の協力枠組み「クアッド」だ。欧州諸国もイン

ド太平洋のネットワークに加わった。米豪は英国と安全保障枠組み「AUKUS(オーカス)」を創設。日本は豪州と部隊の共同訓練を行いやすくする「円滑化協定」を締結し、英仏との締結も急いでいる。

 

 

台湾有事なら

 

そして今、同盟ネットワークが視野に置くのは台湾海峡における有事だ。

 

日本は台湾と外交関係がなく、防衛義務もない。だが台湾有事が発生すれば、沖縄を含む南西諸島に波及する恐れもある。

 

日米外交筋は、国際的な対中連携で「一番人事なのは日米同盟でことに変わりはない」と語る。

 

日本には今、重層化したネットワークの最も重要な結節点としての役割を果たすことが求められている。それはダレスに冷笑され、日本が置き去りにしてきたものでもある。(敬称略)

 

サンフランシスコ講和条約署名
サンフランシスコ講和条約署名

 

 

サンフランシスコ講和条約とはなにか?

 

署名:昭和26(1951)年9月8日

発行:昭和27(1952)年4月28日

署名した国:米英両国など48カ国と日本

 

連合国による占領が終わり、日本は主権を回復

朝鮮の独立を承認、日本は台湾・澎湖諸島、千島、南樺太を放棄

沖縄・小笠原は国際連合の信託統治下に入るまで米国の支配下に置く

協定の基づく外国軍隊の日本国内への駐屯、駐留は妨げな

日本は主権国として個別的自衛権、集団的自衛権を有する

日本の海外における資産は放棄

 

 

■経済安保 攻撃は最大の防御

 

中国の威圧を封じる「武器」急務

 

 

今年1月21日、首相の岸田文雄が米大統領のジョー・バイデンとテレビ会議形式で会談したときのことだ。バイデンは中国の国家主席、習近平とのこんなやりとりを明らかにした。

 

「習はクアッドを開催しないでくれと言ってきたことがあるんだ」 

 

日米豪印のクアッドは相互防衛義務を課す同盟ではないが、中国の目から対中封じ込めの枠組みと映るのであれば、戦略的に有効であると証明することになる。バイデンの口ぶりには、そういう思いが込められていた。

 

クアッド形成を唱えたのは第1次政権時代の安倍晋三だった。中国に対抗するため、東南アジア諸国連合(ASEAN)の能力構築支援やインフラ整備を主導するのは日本だ。クアッドは加えて、サプライチェーン(供給網)の強化、新興技術の分野での連携も打ち出している。

 

東西両陣営が経済的に切り離されていた冷戦時代、日本はサンフランシスコ体制の下に守られ、西側陣営内で戦後の復興と経済大国への成長を実現した。しかし、世界経済のグローバル化によって現在は、中国を含む相互依存の網が張りめぐらされている。

 

ロシアによるウクライナ侵攻前、一部の欧州諸国がエネルギー関連の対露制裁に難色を示したのも、各国がロシアの天然ガスに依存するためだ。だが、侵攻を受けて日米欧は大規模な対露経済制裁を断行した。

 

経済は国際紛争での有効な「武器」となり得る。クアッドに対する中国の警戒には、そうした国際社会の現状が反映されている。

 

 

訴訟の狙いは

 

経済・貿易の相互依存を前提とした中露との「新冷戦」をいかに勝ち抜くか。その一つの答えが、経済安全保障の取り組みだ。

 

「極めて高い関心をもつてみている。経済安全保障の観点を織り込んでいくのは当たり前だと思う」

 

2月28日、日本鉄鋼連盟会長(日本製鉄社長)の橋本英二は定例記者会見で、岸田政権が3日前に閣議決定した経済安保推進法案を強く支持する立場を打ち出した。橋本の念頭には、昨年10月に日鉄が起こした訴訟があったとみられる。

 

日鉄は電気自動車(EV)などのモ―ターに使う「無方向性電磁鋼板」の特許を侵害したとして、トヨタ自動車と中国鉄鋼大手の宝山鋼鉄を東京地裁に提訴した。2カ月後には、取引に関わったとされる三井物産も対象に加えている。

 

無方向性電磁鋼板は、モーターの主要部材である鉄心の素材として磁性をコントロールし、より少ない電力で回転させたりするのに使われる。軍事転用が可能な機微にわたる技術ではないが、脱炭素化を背景に需要は急拡大しており、半導体の次に不足が顕在化するともいわれている。

 

世間の注目は日本を代表する企業同士の争いに集まりがちだが、日鉄にとって最大の狙いは「‐中国から技.術を守り抜くこと」(同社幹部)にある。

 

橋本は昨年6月、対中国における「政治・外交のカードとして私ども経済界ができること」として、知的財産権を保護しつつ中国に向き合っていくことの重要性を訴えていた。

 

 

「守り」に力点

 

「攻撃は最大の防御」。実は、経済安保の世界にも当てはまる鉄則だ。中国は、韓国やカナダ、オーストラリアが自国の意に沿わない行動をとると、相手が米国の同盟国であっても輸入制限などを駆使して経済的威圧をかけてくる。

 

一方、日本に対しては、少なくとも最近は中国からの目立った威圧はない。国家安全保障局(NSS)の関係者は「日本が輸出を停止すれば中国が打撃を受ける製品があるからだ」とその背景を分析する。

 

日本政府が2019年7月から韓国への半導体材料の輸出管理を厳格化し、「日本は攻撃に回ることもあり得る」と中国が理解したとの見方もある。

 

では、日本は具体的に何を「武器」に中国に対抗していくのか。

 

本来であれば政府が司令塔となって武器となる技術を特定し、大規模投資する必要がある。しかし、経済安保推進法案は半導体などの重要物資を海外に依存するリスクを減らし、軍事転用できる技術の流出を防ぐことを目指すなど「守り」に力点が置かれている。

 

中は28年に国内総生産(GDP)で米国を追い抜き、世界1位になるとの予測もある。日本が経済的相互依存の網の目の中で主権を守り抜き、中国の経済的専横をはね返すことができる特定先端技術の優位を確保するまで、残された時間は決して多くない。(敬称略)

 

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■ ヤルタ会議・ソ連の対日戦争への参入に関する合意文書

 

 

江崎道郎氏のFBに、合衆国の対外関係:外交文書、マルタとヤルタでの会議、1945年L/Tファイルが載っていましたので、書き起こして掲載します。米国のトップシークレットの公開文書です。

 

英国とアメリカがソ連を引き入れるために、ソ連と合意した文書。今みるとソ連の主張は当時もえげつないですね。

2022/04/18

 

 

 

1. 歴史的文書 

2. 合衆国の対外関係:外交文書、マルタとヤルタでの会議、1945年 

3. 文書503

合衆国の対外関係:外交文書、マルタとヤルタでの会議、1945年

L/Tファイル

 

 

ソ連の対日戦争への参入に関する合意 1

トップシークレット

合意

 

ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリスの3大国の指導者たちは、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結した後、2、3か月以内にソビエト連邦が日本との戦争に入ることに同意した。連合国側では、次の条件があります。

 

 

1.外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状は維持されなければならない。

 

2.1904年の日本の危険な攻撃によって侵害されたロシアの以前の権利は回復されなければならない。

 

(a)サハリンの南部とそれに隣接するすべての島々はソビエト連邦に返還されます。

 

(b)大連の商業港は国際化され、この港におけるソビエト連邦の卓越した利益が保護され、ソ連の海軍基地としてのアーサー港のリースが回復し。

 

(c)大連への出口を提供する東清鉄道と南満洲鉄道は、ソビエト連邦の卓越した利益が保護され、中国が維持することが理解されているソビエトと中国の合同会社の設立によって共同で運営されるものとする。満洲の完全な主権。

 

3.千島列島はソビエト連邦に引き渡される。

外モンゴルと上記の港湾および鉄道に関する合意には、蔣介石将軍の同意が必要であると理解されています。大統領は、スターリン元帥からの助言に基づいてこの同意を得るための措置を講じます。

 

三大国の首脳は、日本が敗北した後、ソビエト連邦のこれらの主張が疑いなく履行されることに同意した。

 

その一部として、ソビエト連邦は、日本のくびきから中国を解放する目的で、その軍隊で中国を支援するために、ソ連と中国の間の友好と同盟の協定を中国政府と締結する用意があることを表明します。

 

И。Ctajiиh2  フランクリン Dルーズベルト  ウィンストンS.チャーチル

1945年2月11日。

 

1.1946年2月11日に国務省によって報道機関にリリースされました。国務省執行協定シリーズNo.498として印刷。59Statにもあります。1823年。↩

2.I.スターリン。↩

 

 

以下は、江崎道郎FBより 転記

 

備忘録として。

アメリカ合衆国の外国関係:外交論文、マルタとヤルタでの会議、1945

L/Tファイル

ソ連の対日戦争への参入に関する合意1

トップシークレット

合意

 

三大国-ソ連、アメリカ、大英の指導者は、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終了した後、2、3ヶ月でソ連がワに入ると合意した 側の日本に反対 同盟国はその条件:

 

1.外モンゴル(モンゴル人民共和国)における現状は保たれる。

 

2.1904年の日本の裏切り攻撃によって侵害されたロシアの旧権利は回復されるだろう、viz:

(a)サハリン南部と隣接するすべての島々はソ連に返還される。

(b)大連の商業港は国際化され、この港におけるソ連の先行的な利益が保護され、ソ連の海軍基地としてのポートアーサーのリースが回復された。

(c)大連へのコンセントを提供する中国東鉄と南満州鉄道は、ソ連と中国の共同会社の設立により共同運行される。 ホールは安全であり、中国が満州で完全な主権を保持することを。

 

3.クリル諸島はソ連に引き渡される。

外モンゴルと上記の港湾と鉄道に関する合意は、ジェネラリッシモ・チェンカイ・シェクの同意が必要であることがわかりました。 大統領はマーシャル・スターリンからの助言について、この同時的を得るために対策を講じる。

 

三大国元首は、日本が敗北した後、ソ連のこれらの主張は、疑いなく実現されると合意した。

 

ソ連は、自由を目的とした中国への軍備勢力による援助を行うために、中国とソ連の友好関係と同盟の契約を中国の国政府と結論する準備を表明している 日本人のヨークから中国を観る。

 

そして。2つの言葉

フランクリン・D・ルーズベルト

ウィンストンS チャーチル

1945年2月11日

1946年2月11日、国務省によって報道発表され、国務省行政協定シリーズNo.498と印刷され、59 Statにも掲載されています。 1823年。 ハングル

私。 スターリン ハングル

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■ 日本の歴史教育に足りないもの

 

 

産経新聞正論に、作家・竹田恒泰氏の日本の歴史教科書についてのコラムが載っておりましたので、掲載します。

 

国家の根幹にかかわる事項だと思いますが、日本国政府は何を考えているのか。問題ですね。

2002/04/16

 

 

日本の歴史教育に足りないもの 作家・竹田恒泰

2022/4/14 08:00竹田 恒泰 コラム正論 教科書検定

 

竹田恒泰氏 
竹田恒泰氏 

 

竹田 恒泰氏は、日本の政治評論家、作家、実業家。 身長178cm。株式会社エクスチェンジャーズ代表取締役。利尻昆布ラーメン「くろおび」オーナー。旧皇族の竹田家出身。 明治天皇の女系の玄孫。男系では南北朝時代の北朝第3代崇光天皇の19世の子孫。

 

 

令和5年度から高校で使用される教科書の検定結果が公表された。領土や慰安婦に関する記述は毎回話題になるが、教科書によって歴史の記述に大きな隔たりがあることはあまり議論されていないように思う。どの教科書で勉強するかによって、生徒たちの歴史観や国家観はかなり違ったものになる可能性がある

 

 

歴史記述の大きな隔たり

 

高校ではこの春から、新学習指導要領で必修となる新教科「歴史総合」(日本史と世界史を合わせた近現代史)の授業が始まった。来年度以降は、選択の新教科「日本史探究」(日本史通史)と「世界史探究」(世界史通史)が始まる。従来は日本史が必修でなかったところ、「歴史総合」を必修としたことの意義は大きい。

 

しかし、検定に合格した教科書のなかでも記述の隔たりは大きい。「歴史総合」で比較してみよう。日露戦争について、明成社は「満州を占領したロシアは、軍隊を駐屯しつづけた。日本は韓国が植民地化される危機感を強め、厳重に抗議した」とし、自衛のために不可避の戦争だったことを説明している。

 

しかし帝国書院は「英露対立の代理戦争」、また清水書院に至っては「朝鮮に対する支配を強めて大陸侵略の足場を築こうとした」と記述している。日本は英国のために戦ったわけではないし、まして帝国主義に基づいてもいない。ところが、このような書きぶりが検定をすり抜けている。

 

また幕末の攘夷(じょうい)について、明成社は「日本の自主性を強く打ち出し、外圧に対抗しようとする考え方」と説明しているのに対し、実教出版は「天皇を中心とするすぐれた日本が無礼な『夷狄(いてき)』である西洋諸国の侵入を防ぎ、従わせるべきという考え方」と述べている。そして、このような隔たりは教科書の随所に見られる。

 

 

教科書の採択に問題意識を

 

このような違いは、出版社や執筆者の国家観や歴史観の違いによるものと思われる。教科書検定では、特定の価値観を強要したり排除したりすることはなく、学説として成立していれば書くことが可能であり、その結果が教科書の個性として表れているといえよう。

 

教科書の全般にわたって国家が画一的な執筆を命令するのは不適切であるから、各社が個性のある教科書を書くことは許されて然(しか)るべきである。しかし、本当に先述のような日本を貶(おとし)めるような記述が教科書として適切か、疑問の目を向けなければならない。

 

学習指導要領には、地理歴史科の成果と課題に「国家及び社会の形成者として必要な資質・能力を育んでいくことが求められる」とある。これは教育基本法第1条「教育の目的」と同趣旨である。

 

歴史には光と影がある。その両方を教えることで、生徒たちは良いことは伸ばし、また悪いことは戒めようと思えるのではないか。自虐史観に囚(とら)われた教科書では「国家及び社会の形成者」を育成することはできないだろう。どのような教科書がこの方針に合致しているか、その選別が問われなければならない。

 

そもそも、自虐に満ちた教科書は読んでいて面白くない。そのような歴史教育を受けても、歴史という教科を好きになることもないだろう。

 

 

米国の歴史教科書を見習え

 

日本の自虐教科書の対極にあるのが米国の歴史教科書である。

私は中学の歴史教科書を執筆するにあたり、米国の中高で使われている歴史教科書を何冊か取り寄せて読み込んだことがある。驚いたのは辞書を凌駕(りょうが)するような教科書の厚さと、その内容の面白さだった。コロンブス以来の米大陸の歩みが、壮大な歴史物語のように綴られていて、外国人である私も魅了された次第である。

 

しかし米国の歴史教科書は、決して米国の良いところばかりを羅列する喧伝(けんでん)書ではない。原爆投下を直視する記事はいまだないもののネーティブアメリカンを迫害したことや、黒人奴隷の売買、そして先の大戦で在米日系人を収容所に入れたことなど、米国史の負の部分もしっかりと記述し、それを繰り返さないように戒めている。

 

米国の歴史教科書は、真摯(しんし)に過去を振り返りつつも、力強く国の誇りと国柄を伝えるものであり、このような教科書で勉強した生徒たちは、米国民として生まれたことに感謝の気持ちを抱き、将来、米国のために役に立つ人間になろうと思うことだろう。

 

日本の歴史教科書に足りないのはこの点ではないか。日本の歴史を自分たちの先祖の歩んだ道と捉え、自分のルーツをたどる旅を学ぶのは意義深いに違いない。

 

中学歴史では自由社と育鵬社、高校歴史では明成社が自虐史観に囚われない教科書を提供している。いまだ採択率が低いが「国家及び社会の形成者」を育成するにふさわしい教科書が求められるようになれば、採択の結果も変わってくるだろう。また、それ以外の出版社が日本を誇れる書きぶりに改めていくことも期待したい。日本には「日本人の日本人による日本人のための歴史教科書」が足りない。(たけだ つねやす)

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■ 健全な領土教育が国家の独立守る

 

 

産経新聞正論に、麗澤大学教授・八木秀次氏の「健全な領土教育が国家の独立守る」という気になる記事が載っていましたので掲載します。

 

日本の教科書はだいぶ問題がありですね。

2022/04/13

 

 

健全な領土教育が国家の独立守る 麗澤大学教授・八木秀次

2022/4/12 08:00八木 秀次  コラム正論

 

麗澤大学の八木秀次教授
麗澤大学の八木秀次教授

 

八木 秀次は、日本の法学者。麗澤大学国際学部教授。専門は憲法学、法思想史。一般財団法人日本教育再生機構理事長、フジテレビジョン番組審議委員、産経新聞正論メンバー。「新しい歴史教科書をつくる会」第3代会長。

 

 

ロシアに軍事侵攻され、独立を維持しようと文字通り命懸けで戦うウクライナの首脳や国民に各国から共感や支援が寄せられている。日本も例外ではない。日本国民が戦争当事国の一方にこれほど共感したのは初めてかもしれない。おそらく独立を維持しようと戦うウクライナ国民の姿に戦後80年近く忘れていた独立国家としての在り方を気付かされる思いがしているからではないか。

 

 

独立守る苛酷さ、崇高さ

 

ウクライナでは人口の約1割の400万人以上が国外に避難した。高齢者、女性、子供は避難したが、18歳から60歳の男性は徴兵の対象であり、国を守るために戦っている。敢(あ)えて外国から戻って戦う人もいる。兵士が妻や子と別れる姿は『万葉集』の防人の歌を想起させた。ゼレンスキー大統領は国外退避や亡命を勧められても首都キーウに残り、国家と運命をともにすることを選んだ。

 

独立を守るとはなんと苛酷で崇高な行為であるか。普段は独立国家であることすら意識しない日本国民に身をもって教えてくれた。中国による台湾侵攻の懸念もあり、他人事ではないとの意識も広がっている。

 

近代国家の国境の大半は人為的なものだ。アフリカの直線の国境線はそれを物語っている。国境線は必ずしも固定されておらず、戦争の勝敗や隣国との力関係で動くことがある。ロシアはまさにウクライナとの国境線をウクライナ側に動かし、ウクライナそのものを吞(の)み込もうとしている。ウクライナはそれに抵抗し、戦っている。

 

島国で国境をあまり意識しない日本も戦前には台湾や朝鮮を領土としていた。敗戦の結果、放棄したが、加えて、ソ連(現在のロシア)が中立条約を一方的に破って北方領土を占領し、韓国はサンフランシスコ講和条約発効の直前に日本海上に一方的に境界線(李承晩ライン)を引いて竹島を不法占拠した。沖縄県の本土返還とともに日本領土に復帰した尖閣諸島は中国が占領しようと今まさに毎日のように様子を窺(うかが)っている。

 

 

この程度の教科書記述では

 

いずれの領土をも日本政府は「固有の領土」と主張している。今年の「外交青書」は北方領土について久しぶりに「日本固有の領土であるが、現在ロシアに不法占拠されている」と明記した。当然の措置だが、「固有の領土」と主張しなければ、相手国の不法を容認し、その弱腰にいっそう国境が押し込まれることにも繫(つな)がる。

 

ドイツの法学者、イェーリング著『権利のための闘争』(原著1872年、村上淳一訳、岩波文庫)の「隣国によって一平方マイルの領土を奪われながら膺懲(ようちょう)(=征伐して懲らしめること)の挙に出ない国は、その他の領土をも奪われてゆき、ついには領土を全く失って国家として存立することをやめてしまうであろう」を想起したい。

 

近代の民主主義国家は国家の方針を政府関係者だけで決めるのではない。選挙や世論を通じて国民が決定する。国民の意志次第では領土を失い、国境線は押し込まれる。その意味では国民の領土を守ろうとの意志が重要となる。

 

先日公表された令和5年度から高校で使用される教科書の検定結果では北方領土、竹島、尖閣諸島について「地理探究」「政治・経済」では全社の教科書で「固有の領土」と記述している一方で、「世界史探究」「日本史探究」では学習指導要領が「固有の領土」として指導することを求めていないことから「固有の領土」との記述は一部にとどまった。帝国書院の「地理探究」では北海道と北方領土の色が別の色で塗り分けられた地図に検定意見が付され、修正された(産経新聞3月30日付)。

 

健全な領土教育は国家の独立維持に寄与するが、この程度の教科書記述では覚束(おぼつか)ない。

 

 

日本の領土意識の低さ

 

領土意識の低さは日本の特異な幸せな歴史の反映とも言える。世界のほとんどの国は他国から領土を蹂躙(じゅうりん)されたり、植民地になった歴史を持つ。ウクライナを真っ先に支持したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国はソ連に蹂躙され、国土を失い、編入された。ポーランドは分割され、消滅した。その後に待っていたのは圧政や虐殺だった。領土を失うとはそのようなことを意味する。

 

日本人が自国の国旗国歌へ敬意を払わないのも同じだ。他国の支配を受けた歴史を持つ国では国旗国歌を持つことは独立の証しであり、敬意を払わないことは独立の否定を意味する。日本のテレビのコメンテーターがウクライナに降伏を勧めたのも、他国に蹂躙された経験が少なく、降伏後に待つ苛酷な支配を想像できない日本の特異な現象といえよう。

 

ロシアのウクライナ侵攻は、独立国家を維持するためには憲法9条が保持を禁止する「戦力」が不可欠であり、同盟や集団的自衛権の重要性にも気付かせてくれた。日本の独立維持のため、憲法改正や防衛体制のさらなる整備、防衛費の増額は待ったなしの課題となった。(やぎ ひでつぐ)

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■ 英国史に学ぶ「しぶとさ」

 

 

産経新聞ザ・インタビューに歴史学者・君塚直隆さん著『イギリスの歴史』の紹介記事が載っており、気になったので掲載します。

 

イギリスの歴史は何となく気になります。

2022/04/10

 

 

ザ・インタビュー

英国史に学ぶ「しぶとさ」 

歴史学者・君塚直隆さん著『イギリスの歴史』

2022/4/10 12:00 磨井 慎吾

 

日本が英国の歴史から学ぶことは山ほどあると指摘する関東学院大の君塚直隆教授(酒巻俊介撮影) 
日本が英国の歴史から学ぶことは山ほどあると指摘する関東学院大の君塚直隆教授(酒巻俊介撮影) 

 

君塚直隆 きみづか・なおたか 昭和42年、東京都生まれ。立教大文学部卒業後、英オックスフォード大留学を経て、上智大大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大客員助教授、神奈川県立外語短大教授などを経て現職。著書は『立憲君主制の現在』(サントリー学芸賞)、『エリザベス女王』など多数。

 

ウクライナ危機で存在感

 

ストーンヘンジから新型コロナウイルス禍まで-。欧州大陸の北西に浮かぶ大ブリテン島。辺境の島国が7つの海を支配する大帝国となり、今も世界の主要国であり続ける歴史から、何を学べるのか。英国史を専門とする歴史学者の君塚直隆・関東学院大教授(54)の新著『イギリスの歴史』(河出書房新社)は、日本にとってのヒントも豊富に詰まった英国通史だ。

 

謎の多い巨石文化を残した先史時代を経て、英国の歴史は紀元前1世紀のカエサル率いるローマ軍の上陸で本格的に幕を開ける。5世紀のローマ撤退後にはアングロサクソン系をはじめとするゲルマン諸族の侵入を受け、現在まで続くイングランド、スコットランド、ウェールズという地域区分が姿を現してくる。

 

「以前書いた『物語 イギリスの歴史』(上下巻、中公新書)はどうしてもイングランド中心になったのですが、今回はアイルランドも含めた複雑な連合王国の形成にもかなり触れられました。最近もブレグジット(英国の欧州連合離脱)の際にスコットランド独立の機運が盛り上がるなど、何かあるたびに再燃し続けている問題ですから」

 

11世紀にフランス北部から来たノルマン人によって征服されたイングランドは、中世を通じフランスの領土をめぐって戦争を繰り返した。国王の海外遠征のたびに戦費負担を求められたイングランドの貴族たちは、やがて結託して諸侯に相談のない課税などを禁じる「大憲章(マグナ・カルタ)」と呼ばれる要求を王に突き付け、受け入れさせた。そうした中で生まれた諸侯大会議(パーラメント)が、今日まで続く「議会」の源流となっていく。

 

「やはり『柔軟性』がこの国のキーワードですね。貴族たちが下の階級に対して柔軟な姿勢を示す。それは、貴族たち自身もかたくなな国王と衝突を繰り返した歴史を持っているから。他の欧州諸国と違い、下の階級が主導権を握る革命が起こらなかった最大の原因はそこでしょうね。貴族院がいまだに残るなど、古いものが融通無碍(むげ)に変化しながら生き残るしぶとさがある」

 

「保守するための改革」という言葉に象徴される英国独特の保守主義も、そうした長い歴史の蓄積の中で自然と育まれていったことがよくわかる。

 

「この国は万事、極端なことにはならないんですよ。例外は国王を処刑した(17世紀の)清教徒革命くらいでしょうね。それもわずか11年で王政復古となったのですが、残した教訓は大きかった。国王は議会を無視して勝手なことをやってはいけないし、議会も民衆の声を拾う代議制へと進んでいく」

 

英国王室文書館で全111冊にのぼる女王の日誌を読み込んで完成させた評伝『ヴィクトリア女王』(中公新書)など、英国の君主にまつわる多数の著作を刊行し、日本における英国王室研究の第一人者としても知られる。通史の執筆は歴史家にとって大変な仕事だが、「私の専門の19世紀から現代までの歴史を見ても、やはり中世以来のさまざまな積み重ねの上で成り立ったのが分かってくる。その上でもう一度専門の時代に戻ると、今まで見えなかった側面に光を当てることができる。それが通史を書く醍醐味(だいごみ)ですね」。

 

一時は「英国病」とまで言われた衰退期を経験しながら、なおしぶとく大国であり続けるイギリスの歴史は、今後の日本にとっても貴重な教訓に満ちている。

 

「もう日本は没落するばかりとの悲観論が強いですが、今も経済をはじめ多くの分野で力のある主要国なのは確か。世界で起きることに無関心ではいられない立場です。その点、英国は今回のウクライナ危機の対応を見てもわかる通り、どういう時に関わり、プレゼンスを示すかの判断が実にうまい。学ぶことは山ほどあるんですよ」

 

 

3つのQ

 

Q英国史の中で注目すべき一人を挙げるとすれば?

 

歴史を最も大きく変えたという意味では、(清教徒革命を主導し自ら護国卿となった)クロムウェルでしょうね

 

Qこれからの日英関係は?

 

今年は日英同盟締結120年で、来年は失効100年の節目。ブレグジット以降の両国接近は顕著で、「新・日英同盟」の可能性もあります

 

Q今後の執筆予定は?

 

歴史の中での貴族の役割を考察する『貴族とは何か(仮)』を新潮選書から出す予定です。

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■ 日本は「無条件降伏」したわけではない

 

 

インテリジェンスで読み解くWWⅡ-vol.12に、江崎道郎氏著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集した内容が、『日本は「無条件降伏」したわけではない。ポツダム宣言を読み解く』として取り上げられていましたので、掲載します。

 

ポツダム宣言受諾は、条件付降伏だったということ。

2022/04/13

 

 

日本は「無条件降伏」したわけではない。ポツダム宣言を読み解く

江崎道朗

 

インテリジェンスで読み解くWWⅡ-vol.12-

第二次世界大戦で日本はポツダム宣言を受諾しました。「日本は無条件降伏をした」と言われることがよくありますが、文書を読むと条件付降伏だったことがわかります。

2022.4.7

 

第二次世界大戦で日本はポツダム宣言を受諾しました。これを指して「日本は無条件降伏をした」と言われることがよくありますが、降伏文書をきちんと読むと、日本は条件付降伏をしたことがわかるのだと、評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏は指摘しています。

 

 

ポツダム宣言受諾で責任回避に走る日本のエリート層

 

1945年8月14日の23時、日本は中立国のスイス・スウェーデン経由で、連合国側にポツダム宣言の受諾を通告しました。

 

1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン 出典:アメリカ国立公文書記録管理局(ウィキメディア・コモンズ) 
1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン 出典:アメリカ国立公文書記録管理局(ウィキメディア・コモンズ) 

 

 

しかし、それで戦争が終わったわけではありません。

 

国際法上、戦争状態が終結するのは、戦争当時国間で講和条約が締結され、その条約が発効した時点です。日本側には、連合国側と停戦協定を結んで各地の戦闘を終了させるとともに、講和条約締結に向けた作業を進める必要がありました。

 

この作業は非常に重要です。例えば、ヨーロッパと中東の紛争が未だに続いているのは、第一次世界大戦の戦後処理に問題があったからです。

 

しかし、当時の日本の指導者たちは、停戦交渉に一丸となって立ち向かったわけではありませんでした。9月2日、停戦協定たる降伏文書に外務大臣として調印した重光葵(しげみつ まもる)は、次のように書き残しています。

 

降伏文書調印1945年9月2日、中央で署名を行っているのが重光葵外務大臣 出典:ウィキメディア・コモンズ 
降伏文書調印1945年9月2日、中央で署名を行っているのが重光葵外務大臣 出典:ウィキメディア・コモンズ 

 

 

降伏文書調印の代表使節を、何人にするかについて、少なからず困難があった。(中略)戦争が一日にして止んだ当時の、日本指導層の心理状態は異常なものであった。戦争の終結、降伏の実現について責任を負うことを極力嫌忌して、その仕事に関係することを避けた。この空気において降伏文書の調印に当たることは、公人としては破滅を意味し、軍人としては自殺を意味する、とさえ考えられた。[『昭和の動乱』下 重光葵 中央公論社/1952年]

 

米軍艦艇ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式には、全権代表として軍から梅津美治郎(うめづ よしじろう大)将、政府からは重光葵が出ました。近衛文麿以下、候補に挙げられた重臣たちが、敗戦の責任をとることを嫌って全権代表になることを拒否して逃げたため、やむなく重光が任を負ったのです。

 

昭和天皇は、連合国側に「天皇処刑論」を唱える動きがあることを知りながら「わたしのことはどうなってもかまわない」と仰せられ、ポツダム宣言の受諾を決断しました。

 

しかし、当時の日本のエリート層は、動揺と責任回避の渦中にいました。

 

4月に内閣を組織していた鈴木貫太郎らは、皇族を総理大臣として担ぐことで終戦工作を乗り切ろうとし、8月17日、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣が発足します。重光葵は同内閣の外務大臣でした。

終戦内閣である東久邇宮内閣には、3つの責務がありました。

 

第一の責務は停戦です。日本軍は満洲や中国、太平洋の諸島、東南アジアといった広範囲に散在していました。すべての場所で確実に停戦を行う必要がありましたが、一般国民が皇室を素直に崇拝していたことをもって、無事にこの責務は果たされます。昭和天皇の御聖断があればこそ、軍も一部の例外を除いて矛を収めました。玉音放送が外地にも一斉に伝えられるとともに、昭和天皇はまた、皇族を使者として各地に送りました。

 

第二の責務は、終戦に必要な手続きを完了させることでした。

8月15日、連合国最高司令官に就いたダグラス・マッカーサーは、終戦手続きのために代表をフィリピンに派遣するよう日本に要請します。当時、マッカーサーの司令部はフィリピンのマニラにありました。参謀次長・河辺虎四郎中将と外務省調査局長・岡崎勝男ら数名が派遣され、後日正式に調印する「降伏文書」の写しを持って帰りました。

 

この「降伏文書」の条文を忠実に実行すること、つまり「終戦条件であるポツダム宣言の実行」が第三の責務でした。

 

 

日本は“無条件”降伏はしていない

 

降伏文書は、日本側と連合国側の合意文書です。つまり、日本と連合国の双方が守る義務が明記されている文書です。ポツダム宣言受諾を指して「日本は無条件降伏をした」と言われることがよくありますが、降伏文書をきちんと読むと、日本は条件付降伏をしたことがわかります。

 

日本の降伏文書 出典:7maru / PIXTA 
日本の降伏文書 出典:7maru / PIXTA 

 

 

降伏文書は7つの条項から成っています。

 

その第一は「一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏」となっています。ポツダム宣言が第13条で述べていることを踏まえた条項で、「日本国」でも「日本政府」でもなく、あくまでも「軍隊」の無条件降伏です。

 

ルーズヴェルト政権からトルーマン政権に変わり、少なくともポツダム宣言声明時のアメリカ政府は、「軍隊」の無条件降伏が講和の条件であるということを降伏文書に記したのです。

 

降伏文書において特に理解しておくべき極めて重要な点は、統治の問題でしょう。降伏文書は、「直接統治」つまり連合国軍による日本支配ではなく、「間接統治」つまり日本政府による統治を認めています。

 

条項の第三で降伏文書は、日本国大本営に対して、自分の指揮下にある軍隊に無条件降伏を命じるよう指示しています。連合国司令官が直接、日本の軍隊に命令を発信しているのではありません。

 

条項の第四は、日本政府は官僚や軍に対して、連合国司令官の命令にきちんと従うよう命令せよ、とし、連合国司令官は日本政府に委任して発令させる、としています。連合国司令官が直接命令を下すわけではありません。

 

日本政府を通じて命令を実行させるよう要求しているのですから、これは間接統治ですし、日本政府を交渉相手として認めるということでもあります。

 

ドイツの場合は、ナチス政府が崩壊したのちに降伏しました。連合国軍によって政府の不在が宣言され、分割占領されて直接「軍政」が敷かれることになりました。ドイツの状況と日本の状況は大きく違っていた、ということは知っておく必要があります。

 

また、条項の第五は、ポツダム宣言を誠実に履行すると約束し、そのために必要なことを連合国司令官や他の連合国代表が要求した場合には、日本側が命令を発して措置を取ること、としています。そのポツダム宣言は第5条で「われわれの条件は次の通りである。われわれはこの条件から離脱することはない。これに代わる条件はない」としていました。

 

ポツダム宣言が伝えられた当時の外務大臣・東郷茂徳は「条件は次の通りとしてあるのだから、無条件降伏を求めたものではないことは明らかだ」と受け止めていました。

 

重光葵もまた「第一、軍隊の無条件降伏であって、(中略)ドイツの場合と異なり、日本政府の存立は否定したものではなかった。のみならず、日本が将来国家としても、また国民としても生活し得るために、原料の供給等を保障したものであった」と述べています。

 

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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■ 日系12万人、米で自由奪われ

 

 

産経新聞の国際特集に、「日系12万人、米で自由奪われ」のコラムが掲載されていましたので、書き起こして掲載します。

 

学校では教えてくれませんでした。

2022/04/07

 

 

日系12万人、米で自由奪われ 平田雄介

2022/4/7 21:18 平田 雄介 国際

 

米国にあった日系人収容所
米国にあった日系人収容所

 

 

日米が戦火を交えた先の大戦中の1942年春、米大統領令9066号に基づき「敵性外国人」とみなされた日系人の強制収容が始まってから80年がたった。日系人というだけの理由で約12万人が自由と財産を奪われ、全米10カ所の収容所に送られた。米政府は過ちを認め、日系人の名誉回復は制度上も実現。ただ、マイノリティー(少数民族)であることの苦悩が消えたわけでなく、米社会で生き方の模索は続きそうだ。

 

 

強制収容、繰り返してはならぬ

 

「米国は成功を夢見る移民の努力で発展してきた。日系人の自由や財産を奪った強制収容のような差別を繰り返せば、アメリカン・ドリームが支える米国の未来がしぼんでしまう」。米カリフォルニア州の収容所で生まれた日系人タケシ・フルモトさん(77)=米東部ニュージャージー州在住=は、家族と自らの体験を振り返り、「強制収容のような差別は二度と起こしてはいけない」と訴えた。

 

 

有刺鉄線のフェンス

 

フルモトさんの父、キヨトさんは13歳のとき広島から米西部カリフォルニア州に移住。イチゴ農園の労働者から身を起こし、農産物卸売会社の共同経営者になった「アメリカン・ドリームの体現者」だった。だが、幸せな生活は日米開戦に伴う強制収容で暗転した。

 

財産を没収され、妻や娘と南部アーカンソー州のローワー収容所に送られた。43年2月に実施された米国への忠誠登録の質間に「子供が小さいから米軍での戦闘はできない」「広島に両親を残しているから天皇への忠誠は拒否できない」と答えると、「反米的」とされた日系人が集められたカリフォルニア州北部のツーリレイク収容所に移された。フルモトさんは44年10月、ここで生まれた。

 

終戦後、フルモトさん一家は広島に戻る。キヨトさんが両親の身を案じたからだ。ただ、56年には家族全員が米国に移った。フルモトさんは「中学を卒業しない移民でも、頑張って働けば、大きな家に住めるという米国での成功体験を父が忘れていなかったからだ」と振り返る。

 

米国で暮らしを再建した父は収容所での出来事をあまり話さなかった。フルモトさんも聞かなかった。約10年前、姉の勧めで「ツーリレイク巡礼の旅」に参加したとき被収容者の話を聞き、有刺鉄線のフェンスに囲まれた敷地のバラックで、銃を持つ監視塔の兵士に見張られて過ごす生活を「初めて具体的に想像できた」という。

 

ただ、フルモトさん自身にも、日系人だからーという理由だけでいわれなき攻撃を受けた体験がある。

 

1度目は小学生から中高生にかけての1950〜60年代。毎年、真珠湾攻撃があった12月7日(日本時間8日)が近づき、追悼番組がテレビなどで放送されると、同級生から「おまえのところの国はなんてことをしたんだ。このジャップ(日本人の蔑称)め」となじられた。

 

大学卒業後、軍幹部候補生学校に入り、べトナム戦争に従軍した。「将校になって立派な米国人と認められたい。日系人だからとバカにされたくない」との思いがあったからだという。

 

2度目はベトナムから帰還後に移住したニュージャージー州で体験した。70~80年代の日本企業の米国進出の波に乗り、不動産業で成功した後の92年、「ジヤパン・バツシング(日本たたき)」の余韻が残っていた。日本人客を接待したレストランの駐車場で、男に待ち伏せされ、「おまえら不動産の話をしていたな。米国を買っているのか。ジャップはよくない」と罵られた。

 

 

コロナで3度目被害

 

中国で感染が初確認された新型コロナウイルス禍の影響で、身近な人が昨年、思わぬ被害に遭った。カリフォルニア州に住む息子がチャイナタウンの近くで、黒人の男から「おまえ、アジア系だな、コロナだな」と罵声を浴びせられ、蹴られた。フルモトさんの部下の日系人女性は、ニューヨークで「チャイナ!コロナ!」と叫ぶホームレスの男に追いかけられた。

 

「日系人として私は今、人生で3度目の人種差別の波の中にいる」とフルモトさん。大学などで、自らの体験や差別の愚かさなどを伝えている。

 

 

名誉回復まで46年の歳月要す

 

日系人の強制収容を公式に謝罪し、補償を約束した「市民の自由法」にレーガン大統領が署名したのは1988年。大統領令で奪われた日系人の名誉が回復されるまでに46年の歳月を要した。ただ、過ちを正そうとする日系人や米社会の取り組みは戦後、早い時期に具体化した。

 

1948年に日系人退去補償請求法が成立し、戦時に失われた財産に対する賠償の一部が実施された。52年制定の移民国籍法では、市民権のなかった日系1世の帰化権が認められている。

 

黒人解放など公民権運動の高まりで、マイノリテイー(少数民族)の権利に関する意識が変化した50〜60年代には、米社会に復帰した日系人への評価も高まった。戦時中の日系人部隊の欧州戦線での奮闘や、日系人の高い教育水準や就業率が広く知られるようになったためだ。日系人は「モデル(模範的な)・マイノリティー」とまで呼ばれた。  

 

ダニエル・イノウエ氏ら日系の有力な政治家も登場し、70年代に強制収容への謝罪と補償を求める運動を始めた「日系米人市民協会(JACL)」に積極助言した。

 

カーター大統領は80年、強制収容の実態を調査する「戦時市民転住収容に関する委員会」を設置した。同委員会に雇われたアイコ・ハージッグ・ヨシナガさんらが当時の新資料を発掘したことで、強制収容の不当性を訴えながらも敗訴したフレッド・コレマツ氏の再審訴訟の道が開け、83年11月、同氏の主張が認められた。謝罪補償請求運動に弾みがつき、88年に市民の自由法が成立。98年にはコレマツ氏に一般市民で最高位の「大統領自由勲章」が贈られた。

 

バイデン大統領は今年2月、政府の公式謝罪を再確認し、コレマツ氏らの名前を挙げ、強制収容の過ちを正した全ての日系人の勇気に敬意を払った。

 

 

「間違ったこと」を正す国・神戸大教授蓑原俊洋さん

 

私の親戚は西部ユタ州のトパーズ収容所に送られた。日米関係史への関心から親戚や知人に話を聞くことがあるが、強制収容に対する考え方は実に多様だ。

 

淑父は強制収容で財産を没収され、ひどい目にあった。しかし、収容所に入れられたことを恨まず、「自分の政府が米国のために収容所に行けというなら喜んで行くべきだ」と話していた「自分が米国人であることを示せる」という考え方だ。

 

日系人の強制収容では、米当局に進んで協力する人がいる一方、人種だけを理由に「敵性外国人」として扱われることに納得せず、当局への服従を拒む日系人もいた。フレッド・コレマツ氏やミノル・ヤスイ氏、ゴードン・ヒラバヤシ氏は有名だ。

 

先の見えない収容所暮らしに疲れ、米国籍を捨て日本へ行きたいと願う人もいた。45年春までに5千人超が国籍離脱の意図を表明。日系社会は一様でなく様々な考えを持つ人がいた。

 

一方、米社会に日系人を支援する動きが戦時中からあった。弁護土のウェイン・コリンズ氏は、国籍離脱を宣言した日系人やコレマツ氏を支えた。西部コロラド州の力―知事は、西海岸から強制的に退去させられた日系人の受け入れをためらうことなく表明し、日系人も他の米国人と同様に、憲法上の権利を保障されると主張した。

 

米国はよく「間違ったこと」をする国だ。しかし、過ちを正す軌道修正のメカニズムも働く。自由と公正に反する行為を「アン・アメリカン・アクト(米国らしくない行為)」と断じ、忌避する価値観が米国民に根づいているからだ。

 

 

 

■日系米国人の強制収容とその後の展開(肩書や国名は当時

 

●1941年12月:真珠湾攻撃、日米開戦

 

●1942年2月:ルーズベルト大統領が日系人の強制収容につながった大統領令9066号に署名

約12万人を強制収容。多くの日系人が米軍に志願し、米国への忠誠心を示す

 

●1944年12月:強制収容の不当性を裁判で争った白系2世フレッド・コレマツ氏が敗訴

 

●1945年:沖縄戦や広島、長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦を経て、終戦

 

●1946年3月:最後の強制収容所(ツーリレイク、西部カリフォルニア州)を閉鎖

 

●1960~70年代:公民権運動や黒人解放運動の高まりに刺激され、強制収容に関する日系人への謝罪と損害賠償を求める運動が進展

 

●1980年7月:カーター大統領が強制収容の実態を調査する「戦時市民転住収容に関する委員会」設置法に署名

 

●1982年6月:日米貿易摩擦の中、日本人と誤解された中国系米国人が撲殺される

 

●1983年11月:コレマツ氏の主張が再審で認められる

 

●1988年8月:レーガン大統領が日系人への謝罪と補償を盛り込んだ「市民の自由法」に署名

 

●2001年9月:米中枢同時テロ発生

 

●2017年1月:トランプ大統領が中東・アフリカ7カ国からの入国を一時禁じる大統領令に署名

 

●2017年12月:ニューヨーク市が「フレッド・コレマツ記念日」を制定

 

●2020年~:新型コロナウイルスの感染拡大、アジア系襲撃事件が相次ぐ

 

●2022年2月:強制収容につながった大統領令から80年。バイデン大統領が「過去の過ちを直視し、全ての人の平等と正義のために戦う」と声明

 

 

 

■米大統領令9066号:

 

ル‐ズベルト大統領が1942年2月19日に署名し日系人の強制収容につながった行政命令。スパイや

破壊活動を防ぐため、指定した軍事区域から住民を立ち退かせる権限を陸軍司令官に与えた。陸軍は西海岸を対象区域としたが、同3月29日、自主的な退去が進まないとして大統領令に基づく布告4号を出し、48時間以内の予告で、日系人の強制退去と収容を開始した。

 

 

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バイデン米大統領=18日、ホワイトハウス(AP)2022/02/18 
バイデン米大統領=18日、ホワイトハウス(AP)2022/02/18 

 

 

日系人収容「二度とない」 米大統領、署名80年で宣言

2022/2/19 12:13 国際 フォト特集

 

米カリフォルニア州のマンザナー強制収容所で列を作る人たち=1943年(アンセル・アダムズ氏撮影、米議会図書館提供・共同) 
米カリフォルニア州のマンザナー強制収容所で列を作る人たち=1943年(アンセル・アダムズ氏撮影、米議会図書館提供・共同) 

 

 

バイデン米大統領は18日、第2次大戦中の日系人強制収容の根拠になった大統領令署名から80年となる19日を前に声明を発表した。約12万人が正当な理由もなく公民権を奪われたと指摘。「二度とないように」と日本語を使い、同じ過ちを繰り返さないと約束すると宣言した。

 

バイデン氏は強制収容を「米国史の最も恥ずべき章の一つだ」と強調。家や仕事、財産だけでなく、自由も奪われたとして「取り返しのつかない被害を受けた日系人への連邦政府の公式謝罪を確認する」と表明した。

 

米カリフォルニア州のマンザナー強制収容所と警備する米兵=1943年5月(AP=共同) 
米カリフォルニア州のマンザナー強制収容所と警備する米兵=1943年5月(AP=共同) 

 

 

強制収容は「非米国的な行為だった。世代を超えて心の傷をもたらした」との認識を示した。

 

80年前の出来事ながら「人種差別や外国人排斥を許せば起きる悲劇」として今も教訓になると訴え、収容者の言葉を引用して「日系米国人の話にとどまらず、世界にとって意味を持つ米国人の話だ」とした。(共同)

 

米カリフォルニア州のマンザナー強制収容所の全景=1943年(ロイター=共同) 
米カリフォルニア州のマンザナー強制収容所の全景=1943年(ロイター=共同) 

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■ 機密公開で明らかに! ヤルタ会談

 

 インテリジェンスで読み解くWWⅡ-vol.10に、江崎道郎氏著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集した内容が、『機密公開で明らかに! ヤルタ会談で英米にソ連が完勝した理由』として取り上げられていましたので、掲載します。

 

機密文書公開で新しい事実が発覚、やはりヤルタ会談の内容は問題が多いですね。

2022/04/05

 

 

機密公開で明らかに! ヤルタ会談で英米にソ連が完勝した理由

江崎道朗

 

インテリジェンスで読み解くWWⅡ-vol.10-

世界の再構築について話し合われたヤルタ会談。現代世界を形作った会談においても、日本人に知られていない真実があったと評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏は語る。

2022.3.24

  

 

「ヴェノナ文書」「リッツキドニー文書」などの機密文書の公開により、 さまざまな事実が明らかになっています。世界の再構築について話し合われたヤルタ会談。現代世界を形作った会談においても、日本人に知られていない真実があったと評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏が語ってくれました。

 

 

ヤルタ会談はソ連の圧倒的な一人勝ち

 

ソ連の秘密工作は、日米開戦だけでなく、終戦処理、つまり第二次世界大戦後の国際秩序と日本の命運に対しても深刻な影響を与えました。

 

その一つが、ヤルタ会談です。

 

このヤルタ会談の評価は、ヴェノナ文書の公開と研究を踏まえて、大きく変更されるべきなのです。

 

会談が行われたリヴァディア宮殿 出典:Mykola / PIXTA 
会談が行われたリヴァディア宮殿 出典:Mykola / PIXTA 

 

 

1945年2月のヤルタ会談開催時には、ドイツと日本の敗北は目前でした。英米ソの三国の優位は決定的で、戦後の秩序を思うままにできる状況にあった三国は、それまでの世界秩序をリセットして、一からつくり直す会談を行います。

 

ヤルタ会談でのルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの決定が、その後の全世界の人々の運命を決め、その影響がいまだに続いているわけですが、会談の議題は、次のようなものでした。

 

●どこに国境を引くか

●どの地域、どの資産を誰が取るか

●それらの決定によって、人民をどこに動かすか

●どの政治勢力がどこを治めるか

●どのような形態の統治になるか(自由主義か共産主義か)

●戦争を防止し、正義を保障する国際機関の創設

 

 

国際機関の創設は、第一次世界大戦後に国際連盟を提唱したウッドロー・ウイルソン大統領の後継者を自認するルーズヴェルトにとって、自らのレガシー(伝説)を後世に残すためにも重要な課題でした。

 

政治家の多くは、歴史に名を残したいという名誉欲が強く、自らの業績を傷つける失敗については隠そうとする習性を持っているということは知っておくべきでしょう。

 

それ以外の議題は、戦後の世界地図を決める、ということです。特に、ドイツ、ポーランドなど東欧諸国、満洲(中国)を誰が統治するか、つまり、アメリカ主導の自由主義とソ連主導の共産主義のどちらに入れるかが焦点となりました。結果は圧倒的にソ連の一人勝ちです。

 

まず、ポーランドに対しては、ワルシャワ蜂起の失敗のまま、住民の意思とは無関係に、一方的な布告と暴力、脅迫によって共産主義政権が押し付けられます。他の東欧諸国も次々と共産化することとなりました。

 

ラトビア、エストニア、リトアニア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニアはソ連の支配下となり、チェコスロバキアは数年間の抵抗の後に屈服し、東ドイツもソ連の支配下となります。

 

アジアでも、中国、モンゴル、北朝鮮、ヴェトナム、カンボジア、ラオスが共産化します。英米は軍事的には圧勝するわけですが、結果として、バルチック海から太平洋へ、さらにはラテンアメリカまで共産圏が広がることになります

 

ソ連の歴史家ミハイル・ヘラーとアレクサンドル・ネクリッチは共著『Utopia in Power(権力のユートピア)』(Hutchinson/1987年)のなかで「アメリカとイギリスはヤルタにおいて、ソ連帝国形成に対する事実上の承認を与えた」と述べています。英米は外交的にソ連に敗北したのです。

 

これほどの外交的敗北は、実は歴史上に例がありません。

 

ヤルタ会談における史上最大の外交的敗北については、対ソ姿勢において、アメリカのルーズヴェルト大統領の責任が大きかったと言えるでしょう。

 

イギリスのチャーチル首相は、ドイツ崩壊によって起こるだろう勢力不均衡を予見して、ソ連に対する警戒を強めていました。チャーチルは、ナチスを倒しても別の専制的独裁者の手に欧州を渡すだけだと考えていたのです。その後、チャーチルはソ連の膨張に備えるよう西側諸国に呼びかけ、1949年にはNATO(北大西洋条約機構)を発足させます。

 

一方、アメリカのルーズヴェルト政権は、ソ連の台頭をむしろ歓迎していました。

 

 

アメリカ外交団を仕切ったアルジャー・ヒス

 

『スターリンの秘密工作員』(スタントン・エヴァンズ、ハーバート・ロマースタイン:著)によれば、ヤルタ会談に乗り込んだアメリカの外交団のメンバー構成は、極めて異常なものでした。ソ連の台頭を歓迎するルーズヴェルト大統領の健康状態は最悪で、まともな外交ができる状態ではありません。

 

側近中の側近ハリー・ホプキンスは、ソ連工作員だったという確証こそないものの、イスハク・アフメロフというソ連工作員から「アメリカ内の最重要なソ連の戦時工作員である」と名指しされています。国務長官のエドワード・ステティニアスは、就任わずか2カ月でソ連に関してはまったくの素人でした。

 

ハリー・ホプキンス 出典:ウィキメディア・コモンズ 
ハリー・ホプキンス 出典:ウィキメディア・コモンズ 

 

ソ連に関する知識があるのは、通訳のチャールズ・ボーレン、ルーズヴェルトおよびホプキンスと懇意にしていたアヴェレル・ハリマン駐ソ大使だけでした。この状況の中、ルーズヴェルトが特別に指名して連れて行ったのが、アルジャー・ヒスという国務省職員です。

下院非米活動委員会で証言するアルジャー・ヒス 出典:ウィキメディア・コモンズ 
下院非米活動委員会で証言するアルジャー・ヒス 出典:ウィキメディア・コモンズ 

 

ヒスは、ヴェノナ文書の公開によって、ソ連の工作員だったことが判明しています。省庁をまたがって形成されていた、ハロルド・ウェアという共産党員をリーダーとする地下組織「ウェア・グループ」のメンバーでした。

ヒスは当時、無名の一官僚に過ぎず、ルーズヴェルトがヒスを知っていた証拠もなく、直々に指名した経緯も不明です。ただし、誰かが何かしらの意図をもってヒスをルーズヴェルトに推薦したことだけは確かでしょう。

 

『スターリンの秘密工作員』は、ステティニアス国務長官の日記と「ステティニアス文書」を調査したところ、実際にはヒスがヤルタ会談において極めて重要かつ広範な役割を果たしていたことが明らかになった、としています。

 

ヒスは、ヤルタ会談において常にステティニアス国務長官と一体で動き、ステティニアスはあらゆる場面でヒスに頼り切りでした。ヒスは、合衆国政府を代表する権威ある立場で、会議の席上で発言していました。ヒスが「国務省としてはこうである」と発言すると、あとからステティニアスがその発言をオウム返しに使うといった状態だったのです。

 

ヒスこそは、ヤルタ会談でのアメリカの外交団の要でした。にもかかわらず、ヤルタ会談を仕切っていたのはヒスだった、ということはほとんど問題にされずにきました。意図的に隠蔽されてきたとみるべきでしょう。

 

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。

 

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